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三ノ輪駅〜浄閑寺(投込寺)

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【撮影記録】
平成28年 10月 4日 晴れ
10:55〜13:50 6,400歩(概算 4.2km 地図上の距離 4.4km)

11日後に大阪で現役時代の職場の同窓会が行われ、それに合わせて京都、大坂を歩く予定である。しかし、6日前のイベントでほとんど歩けず、体力向上のため、好天のせいもあり歩いた。35℃前後と真夏の天気で、なんとかテーマのポイントとなる地点は歩けたが、給水、休憩の繰り返しだった。浅草で食事を考えていたがそこまで歩けなかった。
三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ 三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ 

写真左側は昭和通りで、この交差点で日光街道となる。この交差点で北東から南東に向かう明治通りと交差する。
三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ 三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ 

多少雲があるものの、久しぶりの好天である。
日光街道 大関横丁の次の小路を右折 日光街道 大関横丁の次の小路を右折 

右折するとすぐ左手に浄閑寺(投込寺)の白塀が見える。日光街道の少し先には常磐線の鉄橋が見える。

以前は橋本歯科医院の白い建物が目標だったが、1階は飲み屋で2階は風俗店のこげ茶色のビルに変わっていた。
浄閑寺(投込寺) 浄閑寺(投込寺) 

浄閑寺(投込寺)の白塀に掲げられている。

音無川と日本堤

 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輸橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで濯漑用水として使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。
浄閑寺(投込寺) 山門 浄閑寺(投込寺) 山門 
浄閑寺(投込寺) 山門 浄閑寺(投込寺) 山門 
浄閑寺(投込寺) 山門 浄閑寺(投込寺) 山門 

浄閑寺(投込寺)は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
浄閑寺(投込寺) 本堂 浄閑寺(投込寺) 本堂 
浄閑寺(投込寺) 墓所 浄閑寺(投込寺) 墓所 
浄閑寺(投込寺) 墓所 浄閑寺史蹟 浄閑寺(投込寺) 墓所 浄閑寺史蹟 

多くの史蹟が列記されているが、どこにあるのかの案内がないため、 新吉原総霊塔などすぐ分かるものを撮った。
浄閑寺(投込寺) 墓所 浄閑寺(投込寺) 墓所 

本堂沿いに北上する。正面に常磐線の線路が見える。
浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 

突き当たり手前で右折すると左に有名な新吉原総霊塔が見える。
浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 

浄閑寺(投込寺)と言えば必ず出てくる史蹟で、本堂裏に入るとすぐ分かる。
浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 浄閑寺(投込寺) 墓所 新吉原総霊塔 

有名な川柳である。

花又花酔の川柳

「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
浄閑寺(投込寺) 墓所 永井荷風文学碑 浄閑寺(投込寺) 墓所 永井荷風文学碑 

新吉原総霊塔の向かいにあり、永井荷風の作品が記されている。

「震災」
「偏奇館吟草より」 と記されている。
浄閑寺(投込寺) 墓所 永井荷風文学碑 浄閑寺(投込寺) 墓所 永井荷風文学碑 

明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説家・文明評論家として荷風永井壮吉が日本藝林に遺した業績は故人没後益々光を加へその高風がやうやく弘く世人の仰ぐところとなった。谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩四十二人故人追慕の情に堪へず故人が生前「娼妓の墓乱れ倒れ」(故人の昭和十二年六月二十二日の日記中の言葉)でゐるのをスんで?く杖を曳いたこの境内を選び個人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた。
浄閑寺(投込寺) 墓所 ひまわり地蔵尊 浄閑寺(投込寺) 墓所 ひまわり地蔵尊 

永井荷風文学碑の隣りにある。山谷は吉野通りの泪橋に近い地名であった。

 山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとリ淋しく人生を終る人が数多くいます。
山谷老友会は、孤独の壁をこえて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なしには、真の生活の安らぎがないところから、ひまわり地蔵尊の建立を思いたちました。ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。
 この地蔵尊は、倉田辰彦氏をはじめ、多くの方々のご好意と浄財が寄せられて実現したものです。
浄閑寺(投込寺) 墓所 ひまわり地蔵尊 浄閑寺(投込寺) 墓所 ひまわり地蔵尊 



 
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