|
後楽園駅前 礫川公園 |
|
千川通り 富坂下交差点で春日通りを渡る
千川通りは右手の白山通りと並行している。左右に春日通りが通り、左の富坂の途中に春日局の像があり、上りきった所に中大理工学部がある。右には白山通りとの春日町交差点がある。春日は春日局の拝領地だったことに由来する。 |
|
千川通り 富坂下交差点 文京シビックセンター
白山通りと春日通りと交差する春日町交差点と富坂下交差点の間にあり、文京区役所でもある。 |
|
千川通り 富坂下交差点で春日通りを渡る |
|
千川通り こんにゃくえんま前交差点
交差点の左にこんにゃく閻魔(源覚寺)がある。 |
|
千川通り こんにゃくえんま前交差点 こんにゃく閻魔(源覚寺)
こんにゃく閻魔(源覚寺)は、1ヶ月前の都営三田線沿線を歩いた時に参拝したので立ち寄らなかった。 |
|
えんま通り商店街 西片交差点で白山通りを渡り、言問通りへ |
|
言問通り 菊坂下交差点
菊坂下交差点で右折すると、樋口一葉の旧居など明治の文豪の遺構がある。
樋口一葉が5000円札に採用された時は、文京区役所として大々的に旧居をPRしていた。しかし、ゴチャゴチャと民家が立ち並んでおり、地域から観光客のマナーの悪さが強K指摘され、観光案内板などを撤去し、分かりにくくなっている。 |
|
言問通り 菊坂下交差点 |
|
言問通り 旧町名由来 菊坂町
旧菊坂町(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があった。坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
元禄9年(1696)町屋が開かれ、その後町奉行支配となった。
町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。下通りには、女流作家樋ロー葉が住んだ。現在 旧居跡には使った掘抜井戸が残っている。 |
|
言問通り 本郷弥生交差点で左折、本郷通りへ |
|
本郷通り 本郷追分交差点 |
|
本郷通り 本郷追分交差点 追分一里塚跡
一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く洒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。 |
|
本郷通り 東京大学 農学部 |
|
東京メトロ 南北線 東大前駅 |
|
本郷通り 鴎外記念館 11月開館の小旗
団子坂上の森鴎外の旧居である観潮楼は改装工事を行なってきたが、今年(平成24年)11月1日に開館となる。 |
|
本郷通り とうがらし地蔵(正行寺)
この寺(正行寺)の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。仁王坐禅の相をあらは すと云へり。」とある。 寺に伝わる元文三年(一七三八)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄一五年(一七〇二)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が″とうがらし酒″を好んだことから、 とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。 |
|
本郷通り とうがらし地蔵(正行寺) |
|
本郷通り 向丘一丁目交差点
向丘一丁目交差点で右折すると、日医大つつじ通りで、日本医大、根津神社を経て不忍通りに出る。 |
|
本郷通り 浄心寺
この一帯はいわゆる寺町で、大小様々な寺が建ち並ぶ。
本郷通りの大きな布袋様が気になって立ち寄ったが、特に由緒書きなどはない。 |
|
本郷通り 向丘二丁目交差点
右折すると駒込大観音がある光源寺を経て、団子坂に向かい、左折するとすぐ中山道と交差する白山上交差点があり、白山神社の近くとなる。 |
|
東京メトロ 南北線 本駒込駅 |