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目白通り 高田一丁目交差点〜目白不動尊(金乗院)〜面影橋

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音楽の調べと共に、自然豊かな文化・歴史の街「目白」を歩くH231204(神田川遊歩道〜面影橋〜目白不動 金乗院)


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宿坂 住宅街を下る 宿坂 住宅街を下る 
宿坂 住宅街を下る 宿坂 住宅街を下る 
目白不動尊(金乗院) 目白不動尊(金乗院) 

宿坂を下り切った所にある。
目白不動尊(金乗院) 山門 目白不動尊(金乗院) 山門 

 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は、文禄三年(一五九四)六月であることから、それより以前、天正年間(一五七三〜九二)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二〇年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和四六年に再建され、平成一五年に全面改修されました。
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(一六一八)大和長谷寺第四世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二〇年五月の戦災により消失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動明王は、‐江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(一六二四〜四四)に徳川家光の命によるといわわています。
 墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(一六六六)建立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政一二年(一八〇〇)建立の鍔塚など多くの石造物があります。
目白不動尊(金乗院) 目白不動尊(金乗院) 
目白不動尊(金乗院) 宿坂道 目白不動尊(金乗院) 宿坂道 

 中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。
天保七年(一八三六)出版の『江戸名所図会』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔関所があった跡てあるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳著『若葉の梢』(寛政一〇年・一七九八)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。
目白不動尊(金乗院) 本堂 目白不動尊(金乗院) 本堂 

 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、境内に江戸五色不動の一つ目白不動尊を祀る。目白不動堂(新長谷寺)は元々、近隣の関口駒井町(現文京区)にあったが、戦災により廃寺となったため、本尊を金乗院に移したという。五色不動は他に、目黒、目赤、目青、目黄とあり、目白と目黒は地名の由来ともなっている。
目白不動尊(金乗院) 目白不動尊(金乗院) 
目白不動尊(金乗院) 墓地入口 目白不動尊(金乗院) 墓地入口 

本堂脇に墓地入口があり、慶安4年(1651年)に発覚した慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者の一人で、宝蔵院流槍術の道場主だった丸橋忠弥の墓の案内が立っている。
目白不動尊(金乗院) 不動堂 目白不動尊(金乗院) 不動堂 

墓地入口の右手上に参道の案内があり、不動堂が見える。参道の階段を上って行く。
目白不動尊(金乗院) 不動堂 目白不動尊(金乗院) 不動堂 

江戸五色不動尊は、徳川家光が天海大僧正の献策により天下泰平を祈願し、設けたもので、目黒、目白、目赤、目青、目黄である。成立年代、寺の特定などには異論がある。

目黒不動 - 瀧泉寺(目黒区下目黒) 東急目黒線 不動前駅
目白不動 - 金乗院(豊島区高田) 副都心線 雑司が谷駅
目赤不動 - 南谷寺(文京区本駒込) 南北線 本駒込駅
目青不動 - 教学院(世田谷区太子堂) 東急田園都市線 三軒茶屋駅
目黄不動 - 永久寺(台東区三ノ輪) 地下鉄日比谷線 三ノ輪駅
目白不動尊(金乗院) 墓地 目白不動尊(金乗院) 墓地  

一昨日に降った初冠雪の雪が凍り、参道を歩くのも注意が必要である。
目白不動尊(金乗院) 丸橋忠弥の墓 目白不動尊(金乗院) 丸橋忠弥の墓 

丸橋忠弥は鈴ヶ森刑場で磔刑に処せられた。
目白不動尊(金乗院) 丸橋忠弥の墓 目白不動尊(金乗院) 丸橋忠弥の墓 

丸橋忠弥は磔刑に処せられたが、戒名は尭雲院忠徳道盛居士で、院号、居士である。
目白不動尊(金乗院) 山門を出て右折 目白不動尊(金乗院) 山門を出て右折 
突き当りの南蔵院角を右に進む 突き当りの南蔵院角を右に進む 
南蔵院 南蔵院 

 真言宗豊山派に属し、大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では、開山は室町時代の円成比丘〔永和二(一三七六)年寂〕とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化のとき、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。
 正徳六(一七一六)年の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。また、江戸時代の地誌にも紹介されており、『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
 現在の境内には、元禄九(一六九六)年に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には、相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。
また、三遊亭圓朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。
南蔵院 南蔵院 
南蔵院 江戸時代の高田村 南蔵院 江戸時代の高田村 

 天保五(一八三四)年に刊行された『江戸名所図会』では、高田村付近の様子が、長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。
 「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれている。
 鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが、『新編武蔵風土記稿』では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。
 南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠、馬などが描かれている。道を隔てたところには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残りをとどめている。
南蔵院 南蔵院 

、「名作怪談乳房榎ゆかりの地」の看板につられて立ち寄った。怪談乳房榎は、三遊亭円朝の怪談噺として有名である。
氷川神社 氷川神社 

南蔵院の向かいにある。
氷川神社 氷川神社 

 氷川神社の創建は、武蔵国一宮の氷川神社(埼玉県大宮市)を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は、素盈鳴命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で、平安時代の歌人、在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。
『江戸名所図会』(天保五・一八三四年刊)などの地誌によれば、当神社は、江戸時代には「氷川大明神」と呼ばれ、下高田村(豊島区高田・雑司が谷・目白、文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。
 また、当神社の主神が素盈鳴命であることから、俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の氷川神社の「女体の宮」と合わせて、「夫婦の宮」と呼ぼれていたという。
 明治時代には「氷川神社」と改称し、第二次世界大戦中には、昭和二十年(一九四五)四月十三日の空襲により、境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和二十九年に再建されたもので、境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。
 毎年正月には、弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭」が江戸時代より行なわれ、現在は成人の日に執行している。
 なお、寛政二年(一七九〇)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居、狛犬(文化四・一八〇七年奉納)、石燈篭(明治十一・一八七八年奉納)、玉垣が、平成三年(一九九一)に豊島区登録文化財となった。
氷川神社 氷川神社 
神田川に架かる面影橋 神田川に架かる面影橋 
神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 

面影橋北詰のオリジン電気会社の門脇にある。
神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 
神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 神田川 面影橋北詰 「山吹の里」の碑 

 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳ニ・一七一ニ年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。
 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三(一九八八)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三(一六八六)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。



 
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