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日本医科大学〜駒込大観音〜団子坂

【関連サイト】   爽やかな春の谷根千巡り(幕末の谷中、つつじ祭りの根津、文豪の千駄木)H270424(日本医科大学〜駒込大観音〜団子坂下交差点)

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日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 右は日本医大附属病院 日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 右は日本医大附属病院 
日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 日本医大前交差点で右折 日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 日本医大前交差点で右折 
日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 千駄木校舎 日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 千駄木校舎 
日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館 日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館 

橘桜会館入口角に夏目漱石旧居跡の石碑が立つ。
日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡 日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡 

石碑は川端康成の書である。

夏目漱石は明治卅六年一月英国から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊っちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。歳末廿七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文學發祥の地である。
森鴎外も前に(自 明治廿三年十月 至 同廿五年一月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在 犬山市明治村にある。
日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡 日本医大キャンパス横の道を北上 日本医科大学 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡 

夏目漱石 本名・金之助。慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家,,と呼ばれ親しまれた。
 この地で、『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわし た。漱石文学発祥の地である。
 漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
 二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
住宅街を北上 住宅街を北上 
駒込学園前交差点で右折、大観音通りへ 駒込学園前交差点で右折、大観音通りへ 

交差点の向いの右が駒込学園で、左に駒込大観音(光源寺)がある。
 大観音通り 駒込学園前交差点 駒込大観音(光源寺)  大観音通り 駒込学園前交差点 駒込大観音(光源寺)  
大観音通り 駒込学園前交差点 旧町名 旧駒込蓬莱町 大観音通り 駒込学園前交差点 旧町名 旧駒込蓬莱町 

旧駒込蓬莱町(昭和40年までの町名)

 元文年間(1736〜41)町屋が開かれた。町内向側に、寺院4か寺、(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の向側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。
 明治5年、浅嘉町の一部と、高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。
 町名は中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。 明治13年、駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。
 町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した“お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。
 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 
 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 

高さ約6mの駒込大観音がある。7月9・.1O日の「四万六千日」の縁日のほおづき市で知られる。

駒込大観音再建の時、観音の顔が睨むようなまなざしで怖いとの評判がたち、仏師が死去の後、弟子によって顔だけ作り直された。このことが著作権と名誉毀損問題となり、最高裁で問題なしとなった。今は撤去されているが、勝訴時にはその経緯を書いた紙が貼られていた。
大観音通りを東進 駒込学園前交差点 大観音通りを東進 駒込学園前交差点 
 大観音通りを東進 大観音通りを東進 
大観音通りを東進 団子坂上広場 大観音通りを東進 団子坂上広場 
大観音通りを東進 「青鞜社」発祥の地 大観音通りを東進 「青鞜社」発祥の地 

「青鞜社」発祥の地

 青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥・1886〜1971)の首唱で、木内錠子・物集和子・保持研子・中野初子ら二十代の女性5人か発起人となり、1911年(明治44)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町9番地の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。
 月刊「青鞜」の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となった。表紙絵は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。
 青鞜社は初め詩歌が中心の女流文学集であったが、後に伊藤野枝が中心になると、婦人解放運動に発展していった。事務所はその後4ヶ所移り、「青鞜」は1916年(大正5)2月号で廃刊となった。
大観音通りを東進 「青鞜社」発祥の地 大観音通りを東進 「青鞜社」発祥の地 

「青鞜社」発祥の地の案内板は団子坂上広場の少し先であるが、ビルの陰で見落とす可能性がある。大観音通りの向かいには目立つデザインのギャラリー五辻ビルがあり、その先に天台宗世尊院の案内柱がある。
大観音通りを東進 団子坂上交差点手前  森鴎外記念館 大観音通りを東進 団子坂上交差点手前  森鴎外記念館 

団子坂上交差点の少し手前に森鴎外記念館がある。鴎外が向丘の後に漱石が住んだ家から移り、明治25年から死ぬまで住んだ住居跡である。汐見坂上にあったので、観潮楼と名づけた。ここで雁、高瀬舟などが書かれた。以前は森鴎外観潮楼(鴎外記念本郷図書館)と言い、木造2階建てだった。その後改築工事が長く続き、外観も一変した。
森鴎外記念館は無料の展示室と撮影禁止の有料展示室、カフェなどがある。

若い男女のグループが何やら待ち合わせをしているようだが、このような風景は見たことがない。なぜ屯しているのかも分からない。
 大観音通りを東進 団子坂上交差点 大観音通りを東進 団子坂上交差点 
大観音通りを東進 団子坂を下る 大観音通りを東進 団子坂を下る 

団子坂は、潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」   (御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外夏目漱石高村光太郎が居住していた。
大観音通りを東進 団子坂下交差点で不忍通りを渡り、団子坂通りへ 大観音通りを東進 団子坂下交差点で不忍通りを渡り、団子坂通りへ 



 
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