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兼六園(桂坂入口〜徽軫灯籠〜成巽閣)

【関連サイト】   初秋の金沢、富山散策H200829-H200901(金沢散策H200829(金沢駅〜武蔵ヶ辻〜近江市場))
(兼六園 桂坂入口〜霞ヶ池・徽軫灯籠〜成巽閣)

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金沢 兼六園 桂坂入口 金沢 兼六園 桂坂入口 

 兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大名庭園の特徴をそのまま今に残している。
 もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。
 庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676 (延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭を建て、その周辺を作庭した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭などと呼ばれていた。
 1759 (宝暦9)年の金沢大火で、蓮池庭も一部焼失、荒廃した。 11代藩主、治脩は復興に取り組み、1774 (安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝を築造している。
 一方、束南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があったが、1822 (文政5)年には12代藩主・斉広の豪壮な隠居所「竹沢御殿」が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に、中国宋の時代の詩人・李格非の書いた「洛陽名園記」の文中から採って、宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」が命名された。
 竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。
 こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。
 廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922 (大正11)年3月8日に「史跡名勝天然記念物保存法」の規定により、“名勝”の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により、改めて“名勝”の指定を受けた。
 さらに1985 (昭和60)年3月20日、“特別名勝”となった。
金沢 兼六園 桂坂 金沢 兼六園 桂坂 
金沢 兼六園 直進してことじ灯籠へ 金沢 兼六園 直進してことじ灯籠へ 

右折すると噴水に向かう。
金沢 兼六園 茶亭 寄観亭 金沢 兼六園 茶亭 寄観亭 

兼六園の桜ヶ岡入口に近い。
金沢 兼六園 徽軫灯籠と虹橋 金沢 兼六園 徽軫灯籠と虹橋 

 この灯籠は琴の糸を支える琴柱の形をしていることから、徽軫灯籠と呼ばれている。
手前の橋は虹橋。別名を琴橋ともいう。この巧みな意匠が兼六園を象徴している。
金沢 兼六園 霞ヶ池、徽軫灯籠 金沢 兼六園 霞ヶ池、徽軫灯籠 

兼六園と言うと必ず出てくる風景であるが、「琴柱」ではなく、「徽軫」である。この単語は最新の広辞苑(第6版)にも出ていない。

徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名がついたといわれています。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、高さは2.67メートル。かたわらのモミジの古木、曲水に架かる虹橋と一体となって優れた風景を醸し出しています。
金沢 兼六園 霞ヶ池、徽軫灯籠 金沢 兼六園 霞ヶ池、徽軫灯籠 

毎度のことだが、虹橋に立って徽軫灯籠との記念写真を撮る人が多く、順番待ちが大変である。
金沢 兼六園 霞ヶ池 金沢 兼六園 霞ヶ池 
金沢 兼六園 眺望台 金沢 兼六園 眺望台 

ここからのながめは、兼六園の六勝のうちの一つ「眺望」を味わうことができる。
左のはるかに横たわる稜線は内灘砂丘、その向う側は日本海、砂丘が右に尽きるところから能登半島が北にのびている。正面の山は卯辰山、右は遠く富山県境の医王山がのぞまれる。

生憎の曇り空で眺望は全く望めない。
金沢 兼六園 眺望台 金沢 兼六園 眺望台 
金沢 兼六園 金沢 兼六園 唐崎松 

唐崎松だけでないが、名物の雪吊りの役目は果たしていない。

兼六園の中で最も枝ぶりが見事な松である。13代藩主・斉泰が琵琶湖畔の唐崎から種子を取りよせて実生から育てた黒松である。11月1日に雪吊り作業を始める。北陸に冬の訪れを告げる風物詩となっている。
金沢 兼六園 旭桜 金沢 兼六園 旭桜 
金沢 兼六園 金沢 兼六園 
金沢 兼六園 雁行橋 金沢 兼六園 雁行橋 

 一枚一枚が、亀の甲の形をしているので別名亀甲橋とも言う。
十一枚の赤戸室石が列をなして飛んでいる姿につくられており、かりがね橋ともいう。

11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった「雁行橋」。石の1枚1枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」ともいわれ、この橋を渡ると長生きするとされてきましたが、現在は石の磨耗が著しいため、通行できなくなっています。
金沢 兼六園 金沢 兼六園 
金沢 兼六園 明治紀念之標 日本武尊の像 金沢 兼六園 明治紀念之標 日本武尊の像 

日本武尊の像

明治十年(一八七七)西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。銅像の身長五.五メートル、台石の高さ六.五メートルで明治十三年(一八八〇)に建てられた。
金沢 兼六園 明治紀念之標 日本武尊の像 金沢 兼六園 明治紀念之標 日本武尊の像 
 金沢 兼六園 成巽閣 金沢 兼六園 成巽閣 

日本武尊の像から遠くに成巽閣が見える。
金沢 兼六園 根上松 金沢 兼六園 根上松 

十三代藩主前田斉泰(一八二二〜一八六六)が、稚松を高い盛土にお手植えし徐々に土を除いて根をあらわしたものと伝えられる。

大小40数本もの根が地上2メートルにまでせり上がった奇観はたいへんな迫力で、兼六園名物のーつとなっています。この松は、13代藩主・斉泰が、松の根が地表近くに成長する性質を利用して土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられています。
 金沢 兼六園 成巽閣前 花見橋 金沢 兼六園 成巽閣前 花見橋 
 金沢 兼六園 成巽閣前 花見橋 金沢 兼六園 成巽閣前 花見橋 

辰巳用水

 寛永九年(一六三二)金沢城の堀の水や防火用水としてここから約十一キロメートル先の犀川上流から引かれた。
工事の設計施工は小松の町人、板屋兵四郎である。
金沢 兼六園 成巽閣 金沢 兼六園 成巽閣 

この建物は、文久三年(一八六三)加賀藩主台十三代前田斉泰公が母堂真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城からみて東南方即ち巽(辰巳)の方位に在るとして当初は巽新殿と名付けられたが、明治七年(一八七四)の兼六園が一般公開された時に、成巽閣と改称された。
金沢 兼六園 成巽閣 金沢 兼六園 成巽閣 

前田家奥方御殿 重要文化財 成巽閣

江戸時代後期、加賀百万石前田家を代表する建築物。色彩と花鳥で彩られた12代奥方の御殿は華やかさと優美な意匠に満ちています。京都の二条城と共に日本の江戸時代御殿建築様式を伝える希少な事例です。

立ち寄ろうかと思ったが、防寒用の脱着に不便なハイカットのトレッキングシューズであり、腰痛でしばしば休憩したため帰りの新幹線の時刻の関係で断念した。いつかは忘れたが、立ち寄った記憶はある。



 
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