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北の丸公園散策H280302

【関連サイト】   東京の名園 皇居 北の丸公園
大日本帝国所縁の地を巡るH270305(北の丸公園の近衛師団遺構)
秋の皇居徹底散策(東御苑、北の丸公園)H261113(北の丸公園(旧近衛師団司令部庁舎〜千鳥ヶ淵緑道〜田安門))

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靖国神社 大鳥居前の田安門交差点で靖国通りを渡る 靖国神社 大鳥居前の田安門交差点で靖国通りを渡る 
田安門交差点の陸橋から見た靖国通りの九段下風景 田安門交差点の陸橋から見た靖国通りの九段下風景 

下る時はさして急とは思わないが、上る時は結構急でしかも長い。
北の丸公園 土橋を渡り田安門へ 北の丸公園 土橋を渡り田安門へ 
北の丸公園 田安門(高麗門) 北の丸公園 田安門(高麗門)  
北の丸公園 田安門(渡櫓) 北の丸公園 田安門(渡櫓) 

大手門同様、江戸城の門は防御に強い枡形門である。まず高麗門と呼ばれる門から入り、突き当りの広場を曲がると渡櫓があり、敵兵を広場で銃撃したり、弓矢で防衛する。
北の丸公園 田安門(渡櫓) 北の丸公園 田安門(渡櫓) 

重要文化財 旧江戸城田安門

江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が  実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
 田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36〜41年度の修理で復旧整備したものである 田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。
北の丸公園 日本武道館 北の丸公園 日本武道館 

内容は分からないが、イベントの設営中で、大型のトラックが何台も並んでいた。
北の丸公園 日本武道館 北の丸公園 日本武道館 
北の丸公園 日本武道館前で右折、ザ・フォレスト北の丸 北の丸公園 日本武道館前で右折、ザ・フォレスト北の丸 

ザ・フォレスト北の丸にはレストランや、土産物店がある。

こんな所に、と思うがザ・フォレスト北の丸横の目立たぬ散策路に入り、その後ろに近衛師団歩兵第一連隊の遺構がある。
北の丸公園 大芝生広場 休憩所 北の丸公園 大芝生広場 休憩所 

大芝生広場の北西角にある。
北の丸公園 大芝生広場 休憩所 北の丸公園MAP 北の丸公園 大芝生広場 休憩所 北の丸公園MAP 
北の丸公園 冬枯れの大芝生広場 北の丸公園 冬枯れの大芝生広場 
北の丸公園 冬枯れの大芝生広場、雑木林 北の丸公園 冬枯れの大芝生広場、雑木林 

雑木林の散策路沿いに近衛歩兵第二聯隊跡記念碑や、平成26年12月に大手町から移設された気象庁 東京観測地点がある。
北の丸公園 冬枯れの大芝生広場、中池 北の丸公園 冬枯れの大芝生広場、中池 
北の丸公園 南端にある休憩所 北の丸公園 南端にある休憩所 
北の丸公園 南端の左手にある科学技術館 北の丸公園 南端の左手にある科学技術館 
北の丸公園 乾門に向けて南下 北の丸公園 乾門に向けて南下 

大芝生広場を出ると正面に立派な乾門が見える。

乾(イヌ・イ)とは十二支の戌の方角(西北西)と亥の方角(北北西)の中間である北西を表す。乾門は皇居の北西の門である。
反対に巽(タツ・ミ)は辰と巳の間で南東である。

同じような話だが、鬼は鬼門である艮=丑寅(ウシ・トラ)の北東から進入するとされる。丑はウシなので鬼は角を持ち、虎皮の褌をしている。
北の丸公園 代官町通り 乾門手前で右折 北の丸公園 代官町通り 乾門手前で右折  
北の丸公園 代官町通り 乾門手前 北の丸公園 案内図 北の丸公園 代官町通り 乾門手前 北の丸公園 案内図 

大芝生広場から来るとこの案内図しか見えないが、代官町通り側からだと東京国立近代美術館工芸館の案内碑がある。
北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館) 

旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)は、水曜日が定休日なので閉館だった。

【国指定重要文化財】

 明治43年(1910)に完成しました。陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。 関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。
 昭和52年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。
北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 
北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 

旧近衛師団司令部庁舎(現・東京国立近代美術館工芸館)前の木立の中にある。像手前の案内には書かれていないが、上野寛永寺の輪王寺宮として上野戦争で擁立され、敗北後に蟄居の処分を受けている。

 弘化四年(一八四七)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(一八四八)青蓮院宮御相続、安政五年(一八五八)輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。
 明治三年(一八七〇)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅令によリプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年白川宮を御相続遊ばれた。
 同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一旅団長、参謀本部御出仕。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を御歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘の地で疫病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(一八九五)台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
北の丸公園 北白川宮能久親王銅像前から代官町通りに出て左折 北の丸公園 北白川宮能久親王銅像前から代官町通りに出て左折 
北の丸公園 代官町通り みたけばし陸橋を渡り北桔橋門へ 北の丸公園 代官町通り みたけばし陸橋を渡り北桔橋門へ 

代官町通り

江戸時代の始め、このあたりは関東総奉行内藤清成の屋敷となり代官町と呼ばれた。その後、享保16年(1731年)に八代将軍吉宗の次男徳川宗武(田安家)、宝暦8年(1758年)に九代将軍家重の次男徳川重好(清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられた。昭和42年に整備され北の丸公園となった。
北の丸公園 代官町通り みたけばし陸橋から見た紀伊国坂、竹橋風景 北の丸公園 代官町通り みたけばし陸橋から見た紀伊国坂、竹橋風景 



 
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