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万歩計



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谷中霊園(ぎんなん通り〜さくら通り)〜上野桜木交差点

【関連サイト】   本郷、谷根千、上野の文豪、文化人の足跡巡りH230121(谷中霊園(天王寺五重塔跡〜さくら通り〜徳川慶喜墓所))

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谷中霊園 ぎんなん通り 墓石越しに見える東京スカイツリー 谷中霊園 ぎんなん通り 墓石越しに見える東京スカイツリー 
谷中霊園 ぎんなん通りを東進 谷中霊園 ぎんなん通りを東進 
谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 

 明治時代の教育者、啓蒙学者。天保三年(一八三二)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応二年(一八六六)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
 明治五年(一八七二)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
 明治二四年六月七日、六十歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
 正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に務め、日本近代化に貢献した。
 訳著書に「西国立志伝」「自由之理」などがある。
谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 
谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所交差点で右折、さくら通りへ 谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所交差点で右折、さくら通りへ 

交番の左手奥に天王寺の五重塔跡がある。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 谷中霊園 案内図 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 谷中霊園 案内図 

現在地は緑のブロックの赤印で、右上の黄色のブロックの中の白抜k部分は寛永寺の徳川家墓地である。最後の将軍である徳川慶喜の墓所のみ、柵越しではあるが見物ができる。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 

 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したには、天保四年(一八三三)のことである。最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月六日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石二〇個、地覆石一二戸総数四九戸はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年の実測図が残っており復元も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 

3枚の写真が掲示され、写真左から

在りし日の天王寺五重塔
昭和32年7月6日未明消失
焼火後の天王寺五重塔
である。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 裸木の桜並木 谷中霊園 さくら通り 裸木の桜並木 

3月下旬から4月上旬にかけて、満開の桜のアーチで賑わうが、さすがに裸木なので人通りは少ない。

元々霊園であり、広いとは言えさくら通りは結構車が通るので、花見の宴を見たことはない。
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 

新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み、政府を攻撃し法に触れ獄に投ぜられこと数々あり。金泉丑太郎と一座を組織、「経国美談」演じるが失敗に終わる。横浜にて書生芝居に加わり「板垣退助遭難実記」を演じ好評を博す。外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて「意外、又意外、又々意外」の新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戦争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。自ら興行師たらんとして大阪帝国座を経営する。明治劇団に新派劇の新生面を開く。妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 

嘉永三年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治九年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同十二年、三十歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 
 谷中霊園 さくら通り 雪吊り 谷中霊園 さくら通り 雪吊り 

雪吊り(江戸南部式)
 
 吊り縄(藺草で編んだ縄)を枝に結束せず、シュロ縄の縁に結束する方式で装飾性を重視した雪吊り技法である。

兼六園の雪吊りが有名であるが、東京ではあまり見ない風景である。
谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓の案内 谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓の案内 

さくら通りの端、谷中霊園の南端にある。

徳川慶喜墓は昔は案内もなく、墓地をアチコチ探しまわったが、現在は丁寧な案内が設けられている。

徳川慶喜の墓所は鉄柵に囲まれて近づけないが、隙間からはよく見える。
谷中霊園 都道神田白山線と合流 谷中霊園 都道神田白山線と合流 

都道神田白山線は、右から曲がってきて合流する。右折すると三崎坂を下り、団子坂下交差点に至る。
都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 

信じられないことだが、都道神田白山線は、民家の間の狭い道を通り抜ける。軽自動車がせいぜいの幅員で、谷中からの一方通行であるが、歩行者にギリギリで結構車が通り抜ける。
都道神田白山線 上野桜木交差点 旧吉田屋酒店(台東区立下町風俗資料館付設展示場) 都道神田白山線 上野桜木交差点 旧吉田屋酒店(台東区立下町風俗資料館付設展示場) 

 かって谷中六丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。
 棟札によれば、明治四十三年(一九一〇)に新築して、昭和十年(一九三五)に、一部改築したもの。正面は一・二階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。
都道神田白山線 上野桜木交差点 都道神田白山線 上野桜木交差点 

旧 上野桜木町

上野桜木町は、上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は、慶応四年(一八六八)の彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどか焼失したため、寛永年間(一六二四〜一六四三)に建てられた川越喜多院本堂を明治十二年に移築したものである。東側山麗にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。
 本町ができた年代は明治七年から同十一年二月の間と推察する。そして町名のいわれは、この付近に桜の木が多くあったことに由来する。

「台東区立下町風俗資料館付設展示場」
 谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることのなかった数少ない地域である。このため寺院をはじめ古い建物が比較的多く残っている。この付設展示場は江戸商家の建築様式をもつ酒屋で大変貴重な建築物であることから、昭和六十二年に保存のため現在地へ移築された。



 
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