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(From H14-10-28)

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諏訪台通り(初音のみち)〜三崎坂〜団子坂下交差点

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下町散策 白山神社・根津神社〜谷中霊園・上野寛永寺〜入谷朝顔市(H18-07-08)


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御殿坂 経王寺前の細道が諏訪台通り(初音のみち) 御殿坂 経王寺前の細道が諏訪台通り(初音のみち) 

細道なので見落としやすいが、谷中霊園の西口前を通り、三崎坂を経て団子坂下公園に向かう道として便利である。
諏訪台通り(初音のみち) 修復工事中の朝倉彫塑館 諏訪台通り(初音のみち) 修復工事中の朝倉彫塑館 

 近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
 朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
 中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうががえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が疏菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園事例としても貴重である。
 昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十ー年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。
諏訪台通り(初音のみち) 旧 谷中初音町二丁目由来 諏訪台通り(初音のみち) 旧 谷中初音町二丁目由来 

 初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鴬谷と呼ばれるところがあったことから、鴬の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鴬などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(一八六九)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年のことである。
 谷中初音町二丁目は、元禄一七年(一七〇四)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。
諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 

 明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
 明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
 明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。
諏訪台通り(初音のみち) 谷中霊園 ぎんなん通り出口 諏訪台通り(初音のみち) 谷中霊園 ぎんなん通り出口 

長安寺前で左折すると谷中霊園に向かう。
諏訪台通り(初音のみち) 至る所に寺院がある 諏訪台通り(初音のみち) 至る所に寺院がある 

諏訪台通り(初音のみち)の両側には至る所に寺院がある寺町で、道も狭く、路上駐車があると結構車の通行もあり、通り抜けるのに苦労する。
諏訪台通り(初音のみち) 中華料理店脇で右折、団子坂通りへ 諏訪台通り(初音のみち) 中華料理店脇で右折、団子坂通りへ 
諏訪台通り(初音のみち) 中華料理店脇で右折、団子坂通りへ 諏訪台通り(初音のみち) 中華料理店脇で右折、団子坂通りへ 

左折すると谷中霊園入口を経て言問通りに向かう。
団子坂通りを西進 団子坂通りを西進 

団子坂通りは通称で、都道白山神田線(452号)であり、団子坂下交差点を経て、大観音通りとなって白山上交差点に至る。
団子坂通り 言問通りに戻る東西めぐりんバス 団子坂通り 言問通りに戻る東西めぐりんバス 

台東区のコミュニティバスである東西めぐりんは谷中見物によく利用されており、ミニ観光バスである。
団子坂通り 永久寺 仮名垣魯文墓 団子坂通り 永久寺 仮名垣魯文墓 

団子坂通りは寺町であり、山岡鉄舟を始め、多くの偉人の墓所が並ぶ。

 仮名垣魯文は、幕末・明治時代の戯作者、新聞記者。本名は野崎文蔵、号を鈍亭。猫々道人などといった。文政十二年(一八二九)江戸京橋の生まれ。長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入った。万延元年(一八六〇)「滑稽富士詣」を書いて世に出た。
 明治時代になると、当時の文明開化の世相を風刺した「西洋道中膝栗毛」、「安愚楽鍋」等の作品を発表、明治開花期の花形作家となった。 
団子坂通り 東西めぐりん #8 三崎坂上 団子坂通り 東西めぐりん #8 三崎坂上 
団子坂通り 谷中小学校 団子坂通り 谷中小学校 

何かの公民館だろうと思っていたが、よく見ると谷中小学校であった。
団子坂通り 旧 谷中三崎町由来 団子坂通り 旧 谷中三崎町由来 

 「三崎(さんさき)」のいわれは諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かっていることから名づけられたとする説が一般的である。
 本町は、元禄年間(一六八八〜一七〇四)のころすでに谷中村からわかれ、町屋を形成していた。その後、明治四年(一八七一)に南北二町にわかれ、谷中三崎町南側および谷中三崎町北側となった。しかし、同六年には付近の大円寺をはじめとする六ヵ寺を合併するとともに南北二町は再び一つになり、もとの一町にもどった。
 本町の中心を東西に通る坂が三崎坂。谷中には、由緒ある寺院が数多くあるが、この三崎坂の途中に大円寺がある。ここには江戸時代に浮世絵画家として活躍した「錦絵開祖 鈴木春信」の碑が建っている。
団子坂通り 右折すると谷中よみせ通りへ 団子坂通り 右折すると谷中よみせ通りへ 

東西めぐりんはこの交差点で右折する。少し先に不忍通りの団子坂下交差点が見えており、案内は無いが、谷中よみせ通りへはここしかないだろう、と思って曲がるしかない。
団子坂通り 団子坂下交差点で左折、不忍通りへ 団子坂通り 団子坂下交差点で左折、不忍通りへ 



 
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