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旧日光街道 足立市場前交差点 千住宿奥の細道プチテラス |
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旧日光街道 足立市場前交差点 千住宿奥の細道プチテラス 松尾芭蕉像
千住が奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初めの句が残されている。
「行く春や 鳥啼き 魚の 目に泪」 |
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旧日光街道 足立市場前交差点 千住宿奥の細道プチテラス
平成十六年は芭蕉生誕百六十年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。 千住は奥の細道への旅立ちの地であリ矢立初の句「行く春や烏啼き魚の目は泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちや場の地であリ明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちや場句会」も開かれていました。 芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちや場のせリ場に敷かれていた御影石です。 もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。 遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。 奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。 遥かなる奥の細道ヘ |
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旧日光街道 足立市場前交差点 千住宿奥の細道プチテラス 大名行列
大名行列
いまをさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。
日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最もよく整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参覲交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。
咋今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。
馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。 旧千住宿 千住河原町 元やっちゃ場 南詰 |
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旧日光街道 足立市場前交差点 千住宿奥の細道プチテラス 大名行列 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住河原町 元やっちゃ場 南詰
やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。 街道の西側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。 五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった、と言っても良いだろう。 |
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旧日光街道 旧千住宿 京成本線 ガード下をくぐる |
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旧日光街道 旧千住宿 千住河原町 元やっちゃ場 遺構
大喜 元青物問屋 新大阪屋
当主為也善太郎は俳諧を良くし俳号を為也菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地区の句会の指導を続けている。 今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住河原町 元やっちゃ場 遺構
元青物問屋 川崎屋
このような旧問屋の店を示す札があちこちに掲示されている。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町交差点で墨堤通りを渡る
商店街のあちこちで飾られていた板張りの旧千住宿の紹介板はここまでである。ここから先は宿場町通りまで普通の商店街が続く。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町交差点で墨堤通りを渡る
交差点を渡った所に源長寺(延命子育て地蔵)がある。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町 千住仲町交差点 源長寺(延命子育て地蔵)
山門の右手に延命子育て地蔵がある。
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一〇)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。 本尊は、阿弥陀如来である。 墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。 また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町を北上 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町 掃部宿憩いのプチテラス
掃部宿プチテラスと言っても遺構はなく、憩いのための小公園である。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町 千住掃部宿(せんじゅ かもんじゅく)
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(一六二五)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長三年(一五九八)村を拓き、元和二年(一六一六)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(一九三一)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。 |
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旧日光街道 旧千住宿 千住仲町 千住警察署入口交差点を渡り、本町商店街へ |
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旧日光街道 旧千住宿 千住警察署入口交差点 界隈案内図 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街 ハローワーク足立前 問屋場・貫目改所跡
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産業の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から二里八丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、無事に出かけられる距離だったのでしょう。 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていました。ただ、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街 ハローワーク足立前 問屋場・貫目改所跡 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街 ハローワーク足立 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街を北上 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街を北上 |
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旧日光街道 旧千住宿 本町商店街 千住二丁目交差点で右折、北千住駅前通り(きたろーど1010)へ |
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北千住駅前通り(きたろーど1010) 北千住駅西口交差点 |