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桜田通り 三田四丁目交差点で道なりに曲がる |
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桜田通り 慈眼禅寺脇で左折
ここから寺町を通り、三田丘陵の尾根沿いに三田から高輪に向かう聖坂、二本榎通りに向かう。
このまま桜田通りを進み、魚籃坂下交差点手前の左手にある長松寺には、赤穂義士の切腹を綱吉に建議した荻生徂徠の墓がある。 |
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突き当りを右折、寺町へ
道の両脇には様々な寺が続く寺町を南下する。 |
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突き当りの玉鳳寺で左折、 幽霊坂を上る
5年前に芝高輪を歩いた時に、幽霊坂の途中にあった寺のようだ、と思った。これは坂上で正しいことが分かった。 |
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幽霊坂 突き当りを右折、聖坂へ
右に幽霊坂と書かれた柱があり、間違いではなかった。
聖坂は古代、中世の通行路で、商人を兼ねた高野聖が開き、その宿所があった事による。 |
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幽霊坂
5年前は聖坂jから幽霊坂を下ったが、このような立派な案内はなく、玉鳳寺付近で地元の人に確認した。
坂の両側に寺院が並ぴ、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七ヵ所ほどもある。 |
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幽霊坂 |
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聖坂 三田台公園 |
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聖坂 三田台公園
三田は区内で最も古い地名の一つで、古くは、文献に「武蔵国荏原郡御田」とあります。『櫛田』というのは諸国に多い地名で、神領の呼び名であるとも伝えられています。後に『三田』の文字が使われるようになりました。
三田丘陵を縦断して古代の奥州路、中世には鎌倉街道と呼ばれる街道が南北にはしり、今の第一京浜国道の東側は海でした。
江戸時代、このあたりは月見の名所であったことから「月の岬」と呼ばれ、風光明媚な場所として知られていました。 |
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聖坂 三田台公園 |
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聖坂 伊皿子交差点を過ぎ、二本榎通りへ
この交差点で二本榎通りと名前が替わる。東西を都道415号線が走る。左折すると伊皿子坂を下り泉岳寺へ、右折すると魚籃坂を下り桜田通りに出る。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 旧高松宮邸(高輪皇族邸)
伊皿子交差点を過ぎてすぐ先にあり、有栖川宮家を継いだ高松宮家も廃絶となり、現在は無住の高輪皇族邸となっている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 都営高輪アパート脇で右折
このアパートの奥には細川藩の下屋敷赤穂義士 大石内蔵助切腹の跡がある。数千人規模の参加者がアパート内を通るのを避ける配慮がなされている。 |
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最初の細道を左折
イベントマップには記されていないが、アパートの西端奥に細川藩の下屋敷赤穂義士 大石内蔵助切腹の跡がある。 |
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赤穂義士 大石内蔵助 切腹の跡(細川藩 下屋敷)
赤穂義士は四大名家に預けられた。大石内蔵助ら17名が預けられた細川藩は、彼らを忠義の士として遇し、預けられたことを家の名誉として切腹の場を保存してきた。一方で、六本木ヒルズにあった毛利支藩の長府藩では、赤穂義士を犯罪者として厳しく扱った、との逸話も残る。 |
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赤穂義士 大石内蔵助 切腹の跡(細川藩 下屋敷) |
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旧細川邸のシイ
高輪コミュニティぷらざの手前にある。右上の幹は切られて金属の蓋で覆われている。
肥後熊本藩細川家の下屋敷跡にある樹高10・8m、周囲8・13mのスダジイの巨木。根元の部分に大きな洞があったため補修されている。東京都指定天然記念物。 |
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旧細川邸のシイ
高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高一〇・八メートル、幹囲り八・一三メートル、枝張りは東に六・七メートル、西にニ・七メートル、南に五・六メートル、北に五・八メートルを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十六年には大規模な外科手術を実施した。
旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(一七〇三)二月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門兼亮・小野寺十内秀和・原惣右衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。 |
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高輪コミュニティぷらざ
高輪コミュニティぷらざは、桜田通り沿いの東京メトロ(旧営団)南北線の白金高輪駅前にある高輪地区総合支所のことで、入口は5階である。
この後、道は直角に右折、左折を繰り返して坂を下り、魚籃坂下交差点に出る。 |
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都道415号 魚籃坂下交差点で桜田通りを渡る |
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都道415号 魚籃坂下交差点で桜田通りを渡る
都道415号は第一京浜の泉岳寺交差点を起点とし、泉岳寺、伊皿子交差点、魚籃坂を経て麻布十番、六本木二丁目交差点に至る。
途中の区間を高輪麻布線と呼ぶこともあるが、一般的ではないので、以後も都道415号と称する。 |
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都道415号 魚籃坂下交差点 歩道橋を渡り、右折
魚籃坂下交差点は桜田通りに交差する所と、この歩道橋の所と2ヶ所ある。 |