養願寺・一心寺〜荏原神社〜品川寺

【関連サイト】 旧東海道 品川宿散策(京急品川〜京急青物横丁〜鈴ヶ森刑場跡)
京急本線(京急品川〜品川神社〜鮫洲)


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サクセス品川商店街 サクセス品川商店街 

品川神社から北品川3丁目交差点で第一京浜を渡った所にある商店街で、直進すると旧東海道の品川宿となる。
サクセス品川商店街の接待所 サクセス品川商店街の接待所 

品川、青物横丁、立会川の各商店街が東海七福神巡りのイベントとして接待所を設けている。ここでは甘酒の無料提供があった。
養願寺(布袋尊) 養願寺(布袋尊) 

品川虚空菩薩の案内板で左折、小路の奥にある。
養願寺(布袋尊) 養願寺(布袋尊) 

正安元年(1299)創建の天台宗の寺。本尊は虚空蔵菩薩で、丑・寅年生まれの守本尊として信仰を集める。
一心寺(寿老人) 一心寺(寿老人) 

養願寺から道なりに小路を歩くと一心寺の前に出る。この寺は旧東海道の品川宿の道沿いにあり、幕末の井伊大老との関係が狭い境内の案内板に書かれている。
一心寺(寿老人) 一心寺(寿老人) 

山村一心により安政2年(1855)に開かれた真言宗の寺。旧東海道に面する。成田山分身の不動明王を本尊とし、昔から延命・商売の守りとして伝えられている。

境内の右手に案内板がある。
旧東海道 品川宿 旧東海道 品川宿 

一心寺から旧東海道の北品川商店街を南進する。
今の感覚では品川駅の大分南であるが、北品川である。南品川は目黒川を渡った所からである。
ちなみに品川駅は港区で、東側は港南、西側は高輪である。京急本線の最初の駅は北品川駅である。
旧東海道 品川宿 本陣跡・聖蹟公園 旧東海道 品川宿 本陣跡・聖蹟公園 

山手通りとの交差点手前にあり、明治天皇の行在所になったことから聖蹟公園になっている。
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで品川宿には 初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊する宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、門の入った幕をめぐらしました。 
明治維新後後、京都から江戸へ向った明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。
東海道北品川交差点で山手通りを渡る 東海道北品川交差点で山手通りを渡る 
荏原神社(恵比須) 荏原神社(恵比須) 

目黒川の北側沿いにある。
荏原神社(恵比須) 荏原神社(恵比須) 
荏原神社(恵比須) 荏原神社(恵比須) 

和銅2年(709)の創建で、古くは貴布院大明神、天王社と称し東海道品川宿の総鎮守であった。江戸時代には幕府の信仰も篤く、徳川家康が神領寄進。また明治天皇が東幸の際に内侍所とされた。
都内で唯一、荏原神社天王祭御神面神輿海中渡御が行われることでも有名。
荏原神社(恵比須) 荏原神社(恵比須) 

明治天皇が京都から東京へ移った際、荏原神社が内侍所(現在の宮中賢所)となった。
荏原神社(恵比須) 荏原神社(恵比須) 
荏原神社前の鎮守橋 荏原神社前の鎮守橋 

鎮守橋は目黒川に架かる橋で、この下流側に品川橋がある。旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には境橋と呼ばれていた。
旧東海道 品川宿の松 旧東海道 品川宿の松 

東海道のよしみで浜松市より寄贈された黒松である。
ここではお茶だけの接待であり、最高気温が冬に珍しい15度を超えたこともあり、人気はなかった。この前のサクセス品川での甘酒接待は人気があった。
旧東海道を南下 旧東海道を南下 
旧東海道 天妙国寺 旧東海道 天妙国寺 

お富・与三郎と桃中軒雲右衛門の墓がある。イベントは七福神巡りなので、コース案内図に書かれていないと誰も立ち寄らない。
旧東海道 青物横丁の接待所 旧東海道 青物横丁の接待所 

ここではブラックとミルク入りの2種類のコーヒーを振舞っていた。品川宿の松ではお茶だけで人も少なかったが、ここでは長い列が出来た。
旧東海道 ジュネーブ平和通りを渡る 旧東海道 ジュネーブ平和通りを渡る 

ジュネーブ平和通りという名前だが、京急青物横丁駅の品川寄り改札口前を通り、大井町駅に向う。右側奥にわずかに見える高架が京急本線で、その左が青物横丁駅である。
旧東海道 釜屋跡 旧東海道 釜屋跡 

品川寺の斜め前にある。
 この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したのて、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりしました。
 幕末動乱の世情を反映して慶応三年(一八六七)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が数多く利用しました。 有名な新選組副長土方歳三も、隊志を連れて、慶応三年十月二十一日に休息しています。 また、慶応四年一月(一八六八)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊志たちは、同月十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。
 今から百二十余年前を偲びつつ、ここに記す次第です。
品川寺(毘沙門天) 品川寺(毘沙門天) 
品川寺(毘沙門天) 江戸六地蔵 品川寺(毘沙門天) 江戸六地蔵 

像の高さ二・七五メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得、江戸六地蔵第一番として、宝永五年(一七〇八)に造立したものである。製作者は、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀である。
像の衲衣部をはじめ蓮辨、石基などに寄進者等の名を陰刻し、奉賛者がいかに多かったかがしのばれる。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
  品川寺  品川区南品川三丁目
  太宗寺  新宿区新宿二丁目
  東禅寺  台東区東浅草二丁目
  霊巌寺  江東区白河一丁目
  永代寺  江東区(消滅)・・・深川不動尊に遺構あり
品川寺(毘沙門天) 品川寺(毘沙門天) 

大同年間(806〜810)創建の品川で最も古い寺。江戸六地蔵の第一番。本尊の水月観音は、弘法大師がこの地の領主・品河氏に授たものといわれ、以来、町の人々をはじめ太田道灌、武田信玄らに信仰された。明暦3年(1657)に鋳造された品川寺大梵鐘は、国指定重要美術品。明治維新前後に海外にあることが分かり、昭和5年に返還されたため、「鐘の寺」とも呼ぱれている。

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(H19-01-27) 目次


品川神社  しながわ花街道〜天祖諏訪神社〜鈴ヶ森刑場跡