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万歩計



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諏訪台通り(初音のみち)〜谷中ぎんざ〜団子坂下交差点

【関連サイト】   谷根千(谷中・根岸・千駄木)散策(H21−09−13) 
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満開の上野、谷中、浅草散策(H20−03−29)
    台東区 東西めぐりんH210501


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 言問通り 上野桜木交差点で右折、都道神田白山線へ 言問通り 上野桜木交差点で右折、都道神田白山線へ 

谷中を巡り、上野に戻る東西めぐりんは台東区のコミュニティバスであるが、人気のミニ観光バスである。

交差点手前には旧吉田屋酒店がある。
都道神田白山線 大雄寺 高橋泥舟墓 都道神田白山線 大雄寺 高橋泥舟墓 

高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。
 佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(一八六二)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌二年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年一二月師範役に復職し、慶応三年(一八六七)遊撃隊頭取となる。翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。
 勝海舟、山岡鉄舟とともにに幕末の三舟といわれる。
都道神田白山線 道なりに左折 都道神田白山線 道なりに左折 

直進すると桜並木や多くの有名人の墓所がある谷中霊園である。
都道神田白山線 東西めぐりん #7 谷中霊園入口 都道神田白山線 東西めぐりん #7 谷中霊園入口 

三叉路の入口にあり、後方に谷中霊園に向かう道が見える。
都道神田白山線 つるし雛 都道神田白山線 つるし雛 

ギャラリー茶屋町三番地の窓越し作品展だそうである。
都道神田白山線 つるし雛 都道神田白山線 つるし雛 
都道神田白山線 中華店前交差点で右折、諏訪台通り(初音のみち)へ 都道神田白山線 中華店前交差点で右折、諏訪台通り(初音のみち)へ 

東西めぐりんはこのまま直進し、三崎坂界隈に仮名垣魯文や、山岡鉄舟三遊亭円朝などの墓所が続く。

初音のみちは、旧初音町に因み、初音とは、その年に初めて鳴く鴬などの声のことである。
諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 

門前は三叉路で、右折すると谷中霊園ぎんなん通りの入口である。
諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 

 明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
 明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
 明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。
諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 

境内に案内があるので分かりやすいが、意外と小さな墓である。
諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 

平成21年4月1日から25年3月まで、保存修復工事のため、長期休館となっている。

 近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
 朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
 中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうががえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が疏菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園事例としても貴重である。
 昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十ー年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。
諏訪台通り(初音のみち)の突き当りで左折、御殿坂へ 諏訪台通り(初音のみち)の突き当りで左折、御殿坂へ 

向側に上野戦争で彰義隊士を匿ったため、官軍に銃撃された弾痕跡がある経王寺があり、右折すると日暮里駅に着く。
谷中 夕やけだんだん 谷中 夕やけだんだん 

御殿坂を西に進むと、谷中ぎんざに降りる坂があり、「夕やけだんだん」と呼ばれる。

日暮里は江戸時代に「ひぐらしの里」と呼ばれるほど夕焼けの美しい所で、「夕やけだんだん」は一般公募で名付けられた。谷中ぎんざ商店街を舞台としたNHKの連続テレビ小説「ひまわり」で有名になった。
谷中ぎんざ 谷中ぎんざ 

下町の代表的な商店街として谷中巡りの観光客に人気である。
谷中ぎんざ 谷中ぎんざ 

道は狭く、週末になると観光パンフレットを持った中高年女性の団体で溢れ返る。
谷中ぎんざ 谷中メンチの肉のサトー 谷中ぎんざ 谷中メンチの肉のサトー 

平日なので近所の人達がコロッケなど色々なものを買っていた。名物のメンチは150円で、立ち食いがしやすい専用の袋に入れてくれる。
谷中ぎんざ 谷中メンチの肉のサトー 谷中ぎんざ谷中メンチの肉のサトー 

多くの芸能人の色紙が所狭しと飾られている。脳天気な脱税宰相のハトポッポの幸せそうな写真も飾られている。
谷中ぎんざ 左折し、よみせ通りへ 谷中ぎんざ 左折し、よみせ通りへ 

よみせ通りは、不忍通りの道灌山下交差点から団子坂下交差点まで東側に並行している商店街である。2車線の広々とした商店街で、谷中ぎんざのような猥雑さはない。
よみせ通り ゲート よみせ通り ゲート 

東西めぐりんはこのゲートの少し先にバス停があり、右折(バスは左折)して不忍通りに出る。
よみせ通り ゲート界隈案内図 よみせ通り ゲート界隈案内図 

よみせ通りそのものが普通の商店街だが、ゲートを出るとその感が強くなる。しかし、北の道灌山通り(道灌山下交差点)と、南の三崎坂(団子坂下交差点)とを結ぶ大きな商店街であることが分かる。
地図は南北が逆転している。
よみせ通り 10円饅頭の福丸 よみせ通り 10円饅頭の福丸 

1個10円の小さな饅頭で有名な店である。但し10個単位でしか買えないので、実際は100円饅頭である。
よみせ通り 突き当りを右折、都道神田白山線へ よみせ通り 突き当りを右折、都道神田白山線へ 

谷中に向かう東西めぐりんは平日であるが、立っている人が多い。右折してすぐに団子坂下交差点がある。
都道神田白山線 団子坂下交差点で左折、不忍通りへ 都道神田白山線 団子坂下交差点で左折、不忍通りへ 

東西めぐりんは交差点の手前(右側)に#11 千駄木駅バス停があり、文京区コミュニティバスのB−ぐるは、交差点の左すぐに#17 千駄木駅(団子坂下)バス停がある。谷中巡りから千駄木巡りへの乗り換えが可能となっている。



 
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