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【撮影記録】
平成24年 7月 19日 晴れ
10:10〜11:55 8,000歩(概算 5.6km 地図上 5.8km)
日比谷線 秋葉原〜日比谷
営業距離 5.3km 駅数 9

天気が良いことと、少し体調が戻ったので歩くことにした。ところが今年初めての猛暑日(35℃以上)で、熱中症計も39℃を越す時もあるほどであった。カチカチに冷やした熱中症対策のネッククーラーも1時間も持たず、2本用意したが3時間が精一杯だった。
秋葉原駅前交差点で右折、昭和通りへ 秋葉原駅前交差点で右折、昭和通りへ 
昭和通り 神田川に架かる和泉橋 昭和通り 神田川に架かる和泉橋 

この橋を和泉橋といいます。「御府内備考」には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名としたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で、神田和泉町の町名が残っています。
 神田川の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向柳原どいいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平になりました。
昭和通り 既製服問屋街発祥の地 昭和通り 既製服問屋街発祥の地 

 江戸幕府が開かれた慶長年間(一五九五〜一六一五)になると、神田川の工事か行われ川の南側に土手か築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋まての土手ば、太田道灌か江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再ひ柳を植えたことがら「柳原土手」と呼ばれました
 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまてば大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人か住む町地となり、土手のそぱには古着なとを扱う簡素な露店か設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。
 明治六年(一八七三)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治十四年(一八八一)には、現在の岩本町三丁目十番地及び神田岩本町一番
地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 大正十二年(一九二三)九月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代わりました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。
 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和三十年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。
昭和通り 岩本町三丁目の歴史(江戸時代) 昭和通り 岩本町三丁目の歴史(江戸時代) 

 江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町二丁目)の社伝によれば、太田道灌が鬼門除けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりといわれています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
昭和通り 岩本町三丁目の歴史(明治〜) 昭和通り 岩本町三丁目の歴史(明治〜) 

 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋ダンスホール」が併設されました。
 このように洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。
 現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。
岩本町交差点東で靖国通りを渡り、人形町通りへ 岩本町交差点東で靖国通りを渡り、人形町通りへ 

交差点の少し右(西側)に、靖国通りが昭和通りと交差する岩本町交差点がある。
人形町通り(水天宮通り)を南下 人形町通り(水天宮通り)を南下 

写真では「水天宮通り」の標識となっているが、水天宮前交差点まではこの標識以外は「人形町通り」である。逆に水天宮前交差点を過ぎると「水天宮通り」となる。
従って、このホームページでは地域の実態に合わせた表示とする。
人形町通り 神田松枝町 由来(上段) 人形町通り 神田松枝町 由来(上段) 

上の写真は、神田明神の神幸祭でその美しさで有名な羽衣山車である。

 この界隈は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永二年(一七〇五)ころから町の呼び名になったという。
 旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷」がマンションの狭間にぽつんと残っている。
人形町通り 神田松枝町 由来(下段) 人形町通り 神田松枝町 由来(下段) 

 景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴ら蘭方医たちが尽力して、安政五年(一八五八)、種痘館(のちに幕府直轄の種痘所となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
 周辺をじっくりと散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す“物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビルー階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に、「お玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店内には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化二年(ー八四五)創業の老舗だが、店を始めた当時すでにお玉が池は埋めたてられていたそうだ。
人形町通り 伝馬町牢屋敷跡(十思公園) 松陰先生終焉之地碑、吉田松陰の辞世の歌碑 人形町通り 伝馬町牢屋敷跡(十思公園) 松陰先生終焉之地碑、吉田松陰の辞世の歌碑 

伝馬町牢屋敷跡(十思公園)は、別ページにまとめたが、人形町通りの小伝馬町交差点手前の右側にある。道路沿いには刑死者の慰霊のため建立された大安楽寺があり、十思公園はその正面で少し奥まった所にある。
人形町通り 小伝馬町交差点で江戸通りを渡る 人形町通り 小伝馬町交差点で江戸通りを渡る 
東京メトロ 日比谷線 小伝馬町駅 東京メトロ 日比谷線 小伝馬町駅 

小伝馬町交差点を渡り、江戸通り沿いの右手にある。
江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構 江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構 

都重寶 石町時の鐘
江戸時代当初の時の鐘で初め江戸城にあリ二代将軍秀忠の時是を石町に移し地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され幕禾まで石町時の鐘として親まれた。鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して俳諧の集いをしていた事は有名である。伝馬町牢に於ける處刑もこの鐘を合図に執行されたが定時に鳴るベき鐘が處刑者の延命を祈るが如くその都度遅れたとあって一名情けの鐘と伝えらる。現鐘は旧楼焼損後寶永八年に改鋳したもので銘に寶永辛卯四月中浣鋳物師大工椎名伊予藤原重休とある。昭和五年九月石町寶永時鐘々楼建設会に依り十思公園に移され廿八年十一月都重寶に指定さる。

伝馬町牢屋敷跡
大安楽寺・村雲別院・身延別院・十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は江戸時代の伝馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃常盤橋際より移り明治八年五月市ヶ谷囚獄が出来る迄存した。幕末の時牢屋頭に大番衆石出帯刀、御用山田浅右衛門がつとめた当時勤王志士九十六名が處刑されている。

吉田松陰先生終焉之地
長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ憂國慨世の念篤く萩の松下村塾で多くの人士養成は逐に有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名という著名士を出した。先生は国事を論じた罪により安政六年七月伝馬町牢に囚われ同年十月十月二十七日時三十歳にて惜しくも最期をとげた。
江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構 江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構 

小伝馬町駅の向かいにある。都知事安井誠一郎の書であるが、記念碑には珍しくもう少し字が綺麗だといいのに、と思わざるを得ない。
人形町通りを南下 人形町通りを南下 
人形町通り 堀留町交差点 人形町通り 堀留町交差点 
人形町通り 人形町交差点で金座通りを渡る 人形町通り 人形町交差点で金座通りを渡る 

人形町通りは南から北への一方通行である。

交差点の左手前角にお富と切られ与三郎の情話の舞台となった玄冶店跡の碑がある。
人形町通り 人形町交差点 熱中症計は危険 人形町通り 人形町交差点 熱中症計は危険 

現在時刻は10:40で、熱中症計は、温度(37.5℃)と湿度(48%)である。

暑いとは思っていたが、まさか最初から「危険」で、35℃を越すとは思わなかった。
人形町通り 人形町の由来 人形町通り 人形町の由来 

 江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。
人形町通り 人形町からくり櫓 人形町通り 人形町からくり櫓 

平成21年11月に設置されたからくり時計である。

甘酒横丁交差点を挟んで人形町通りの西側に江戸火消し「は組」の櫓(写真)と、東側に江戸落語の櫓がある。
人形町通り 甘酒横丁交差点 人形町通り 甘酒横丁交差点 
東京メトロ 日比谷線 人形町駅 東京メトロ 日比谷線 人形町駅 

甘酒横丁交差点の右側にあり、角を曲がると親子丼の老舗玉ひでがある。交差点の反対側には明治座まで続く甘酒横丁がある。



 
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