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本郷通り 駒本小学校前交差点 |
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本郷通り 駒込土物店跡(天栄寺)
文京区指定史跡 天栄寺(文京区本駒込1−6−16門前、本郷通り交差点一帯)
神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
起源は、元和年問(1615〜21)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の“さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々は“駒込辻のやっちや場”と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である“土物”が取り引きされたので土物店ともいわれた。正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは“駒込青果市場”と改称した。
街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。 |
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本郷通り 駒込土物店跡(天栄寺) |
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本郷通り 旧駒込片町 由来
むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(春日局の菩提寺)領の農地となった。元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍日光御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側町であったので駒込片町と称した。
南谷寺の目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624〜44)三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立寄り、目黒・目白に対して目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。 |
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本郷通り 目赤不動尊(南谷寺)
比叡山南谷出身の万行律師により元和年間(1615〜1624)に開基。万行律師は伊勢国の赤目山で不動明王を授かり、諸国めぐりの後、駒込村動坂に庵を結び、赤目不動と号した。その後、寛永5年(1628)に徳川家光の命により現在の地へ移され、名も目赤不動と改めた。目黒不動や目白不動などとともに、江戸五色不動尊のひとつに数えられる。 |
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本郷通り 目赤不動尊(南谷寺)
江戸五色不動尊は、徳川家光が天海大僧正の献策により天下泰平を祈願し、設けたもので、目黒、目白、目赤、目青、目黄である。成立年代、寺の特定などには異論がある。
目黒不動 - 瀧泉寺(目黒区下目黒) 東急目黒線 不動前駅
目白不動 - 金乗院(豊島区高田) 副都心線 雑司が谷駅
目赤不動 - 南谷寺(文京区本駒込) 南北線 本駒込駅
目青不動 - 教学院(世田谷区太子堂) 東急田園都市線 三軒茶屋駅
目黄不動 - 永久寺(台東区三ノ輪) 地下鉄日比谷線 三ノ輪駅 |
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本郷通り 目赤不動尊(南谷寺)
この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615〜24)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受けこの地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けてあくをこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関□二丁目にあった。 |
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本郷通り 養昌寺 半井桃水の墓
万延元年〜昭和元年(1860〜1926)。対馬に生まれ、名は冽。桃水は号。別号は菊阿弥。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。
桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。
墓は、墓地を入った突き当たりにある。 |
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本郷通り 養昌寺 半井桃水の墓 |
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本郷通り 養昌寺 半井桃水の墓 |
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本郷通り 養昌寺 半井桃水の墓
墓地の正面に半井桃水の墓がある。 |
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本郷通り 養昌寺 半井桃水の墓 |
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本郷通り 吉祥寺
吉祥寺は中央線吉祥寺の名の由来になった名刹で、門前の人が現在の武蔵野市界隈に移り住んだことによる。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1592)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、昌平坂学開所と並び称された。
古い堂塔
山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
経蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。
墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家) (墓地内左手)
鳥居燿蔵(江戸南町奉行) (墓地内左手)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家) (墓地内右手)
川上眉山(小説家) (墓地内右手) |
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本郷通り 富士神社入口交差点
交差点奥の木立は富士講の富士山がある富士神社である。 |
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本郷通り 富士神社入口交差点 江岸寺 |
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本郷通り 富士神社入口交差点 江岸寺 |
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本郷通り 富士神社入口交差点 江岸寺
曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった、忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東人国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦では、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力つき討死し、城も落ちた。
その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。 |
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本郷通り 上富士前交差点で不忍通りを渡る |
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本郷通り 六義園入口
六義園はこの案内柱か、コンビニを目標とし、左折する。 |
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本郷通り 六義園入口
コンビニ前で左折、赤レンガ塀の奥に正門がある。駒込駅手前の駒込橋交差点にも立派な染井門があるが、そこからは入れない。
六義園は元禄15年(1702年)、5代将軍綱吉の側用人として権勢を振るった川越藩主柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した回遊式築山泉水庭園である。園は吉保の文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の序文に見える六義にちなみ命名され、園内八十八箇所の名勝と共に元禄時代を代表する和歌趣味豊かな大名園である。
明治になり三菱財閥の岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年(1938年)に東京市に寄付された。 |
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東京メトロ 南北線 駒込駅
本郷通りの駒込橋交差点にあり、横には六義園の染井門がある。 |
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本郷通り 駒込橋交差点 六義園 染井門
立派な門で、JR駒込駅にも近いが、入場できない。 |