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新宿中央公園から十二社熊野神社へ
十二社は難読地名として有名で、「じゅうにそう」と読む。 |
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十二社熊野神社 十二社熊野神社の文化財
熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷である紀州熊野の十二所権現をうつし祠ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。
また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時代中期より江戸西郊の景勝地として有名でした。
ミニ博物館「十二社熊野神社の文化財」では。熊野神社に伝えられる江戸時代以来の文化財や、かつての十二社の風景などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。 |
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十二社熊野神社 |
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十二社熊野神社 弁天社 |
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十二社熊野神社 大田南畝の水鉢 |
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十二社熊野神社 大田南畝の水鉢
文政三年(一八二〇)三月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(一七四九ー一八二三)の書による銘文が刻まれています。
外部は幅一五〇cm、高さ六〇cm、奥行六四cm。 11。内部の鉢の部分は幅一二六cm、蓆さ二三cm、奥行六四cmあります。
銘文は次のとおりです。
正面 右側面
熊野三山 「文政三年庚辰」暮春
十二叢祠
洋洋神魂 左側面
監於斯池
大田覃 奉 納
印 印 淀橋 |
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十二社熊野神社 大田南畝の水鉢 |
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十二社熊野神社 大鳥三社
左に大田南畝の水鉢がある。 |
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十二社熊野神社 境内 |
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十二社熊野神社 十二社熊野神社の文化財 |
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十二社熊野神社
角筈村熊野十二所権現社(『江戸名所図会』より)
十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます〔−説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永楽(1532〜69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます〕。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より第一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と哮ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。
この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の蔵を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祠った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。
神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716〜35)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守府となっています。 |
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十二社熊野神社 十二社の池
十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水池として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル、後楽園ビルのあたりにありました。
大池は、南北126間、東西8〜26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池と呼ばれました。この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。
池の周囲には享保年間(1716〜35)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。
明治の時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。
小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。
大池を分水したもので、南北50間、東西7〜16間ありました。
昭和初期より一部の埋め立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941)7月に多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。 |
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十二社熊野神社 拝殿 |
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十二社熊野神社 十二社の碑 |
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十二社熊野神社 十二社の碑
ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(一八五一)三月に建てられました。
高さ二一〇cm、幅一一九cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は二六二字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は二八六字に及びます。
なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。 |
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十二社熊野神社 鳥居 |
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十二社熊野神社 参道を下り右折、十二社通りへ |