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JR 京浜東北線・根岸線 川崎駅
【撮影記録】
平成24年 1月 11日 晴れ 時折 快晴
9:40〜13:10(昼食 15分) 19,500歩(概算 12.7km 地図上 12.3km)
京浜東北線・根岸線 川崎〜横浜
営業距離 10.6km 駅数 5
翌日からこの冬一番の寒さ、ということでまだ暖かいうちに歩くことにした。今回のコースは鶴見までは旧東海道、そこからは第一京浜を歩くわかりやすいものである。また、京浜東北線を歩くので、生麦事件界隈は省くなどの設定をした。 |
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JR 川崎駅東口 駅前風景 |
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川崎駅前 仲見世通を東進 |
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川崎駅前 仲見世通から右折し、銀柳街へ
川崎駅前屈指の商店街である銀柳街に入り南下する。 |
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川崎 LA CITTADELLA (ラチッタデッラ)前で左折、新川通りへ
川崎ラ チッタデッラは昔は普通の映画館が集まっていた場所だが、9年前の平成14年11月に再開発、ラチッタデッラとしてオープンした。
オープンした直後はゴミゴミした以前の雰囲気は無くなり、明るい映画街として好評だった。10年近い年月が過ぎた今は、建物もくすみ、シミができていて薄汚さが目立ち始めている。 |
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新川通り 小土呂橋交差点で右折、旧東海道 川崎宿 小川町通りを南西に進む |
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旧東海道 川崎宿 小川町通り 川崎宿京入口 |
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旧東海道 川崎宿 小川町通り 川崎宿京入口
宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居内は八三二間、このなかに小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する四つの町があった。
江戸時代後期における人□は七七〇戸、三,一〇〇人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久二年(一八六二)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第―関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで一九ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人二名、道案内三名などが詰めて警戒にあたり、非常の際は半鐘を鳴らし、隣りの番所と連絡をとったのである。 |
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川崎警察署東側入口交差点で市電通りを渡る |
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旧東海道 川崎宿 川崎警察署 |
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旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」
川崎警察署の向かいで、少し先に八丁畷駅が見える。 |
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旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」
日進町町内会館「麦の郷」の由来
京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ)向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。
弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。
弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。
弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビバース日進町1階「芭蕉ポケツトパーク」で見ることができます。 平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。 |
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旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」
芭蕉の句碑と川崎宿絵図
江戸時代後期
川崎宿は全長約1。5Kmのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに、教安寺、一行寺、宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)付近に文政13年(183O)俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へ足をはやめたことでしょう。 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
八丁畷駅の手前にある。 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
麦の別れ
元禄七一六九四年五月十一日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓植庄へ帰る時江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
と返歌し弟子達の親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたリによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、 門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ 別れかな
の句にたくしました。 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめくるという辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。
それから百三十余年後の文政十三年(一八三〇)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。 |
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京急本線 八丁畷駅
八丁畷駅は道路の突き当たりにあり、旧東海道は右の踏切を渡って京急本線沿いに鶴見駅に向かう。 |