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第一京浜 札の辻交差点 三田ツインビル西館
江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和二年(一六一六)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。 その後高札場は、天和三年(一六八三)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永七年(一七一〇)に、芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。 |
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第一京浜 札の辻交差点
右折し、白山祝田田町線(都道301号)に入ると三田二丁目交差点で桜田通(国道1号)に合流し、慶応大の東門前から正面には東京タワーがよく見える。 |
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第一京浜 御田八幡神社
ビルの外壁全面を使い御田八幡神社と表示されている。ビル手前の角を曲がると階段があり、鬱蒼とした木立の中に社殿があり、由緒深げな神社であるが、来歴などの案内はない。 |
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第一京浜 高輪大木戸跡
泉岳寺交差点の少し手前にあり、第一京浜を蔽うような大きな木と石垣で、一目でこれは何だろうと思わせる。
高輪大木戸は、宝永七年(一七一〇)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天保二年(一八三一)には、札の辻から高札場も移された。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、石垣のみが残されている。 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要てある。 |
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第一京浜 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(一七一〇)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。・現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(一七九二)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保二年(一八三一)には、札の辻(現在の港区芝五
の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五.四メートル、長ざ七.三メートル、高さ三.六メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので。東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史跡名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。 |
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第一京浜 高輪大木戸跡 |
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隠れた名所 田町車両センター横断トンネル
高輪見附跡のすぐ先で左折して脇道を進むと田町車両センターを横断するトンネルがある。トンネルの高さ1.5mで、タクシーの運転手もここを通るのは気が進まず、一度だけだがタクシーの標識灯が壊れるから、と通行拒否された。このトンネルを使わないと田町駅手前の札の辻交差点か、品川駅を過ぎた八ツ山橋交差点を通らざるを得ず、大きく迂回することになる。
トンネルを歩いて東側に出て品川駅まで歩くこともできるが、結構距離がある。 |
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第一京浜 泉岳寺交差点 |
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第一京浜 泉岳寺交差点
右折して都道415号高輪麻生線に入ると、すぐ先の突き当りに泉岳寺がある。交差点角には都営浅草線の泉岳寺駅の地上出口がある。
都道415号高輪麻生線は赤穂義士縁の遺跡が続き、大石内蔵助自刃の細川藩邸跡や、自刃主導の荻生徂徠の墓所がある。 |
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第一京浜 品川駅 港南口の高層ビル群
やっこ凧のようなビルはNTTドコモビルである。 |
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第一京浜 品川駅 港南口の高層ビル群 |
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第一京浜 高輪歩道橋手前の三徳部品交差点
分かりにくいが三徳部品の先に高輪歩道橋がある。この交差点で右折すると幕末にイギリス公使館となり、水戸浪士に襲撃された東禅寺がある。 |
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第一京浜 京急EXイン高輪(旧ホテルパシフィック東京)
ホテルパシフィック東京だったが、平成22年9月末に閉鎖された。翌平成23年の4月末にビジネスホテルや結婚式場として再発足した。 |
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第一京浜 品川駅前交差点 |
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JR 山手線 品川駅 |