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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門とLて建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 義士祭のポスター |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 線香の煙が立ち込める墓所
墓所門を入ってすぐに浅野内匠頭長矩夫人(瑶泉院)之墓があり、その左奥に浅野長矩公之墓がある。義士の墓は石垣に囲まれた一画にあり、大石内蔵助の墓は墓所の右奥角で、石垣を挟んで浅野内匠頭の墓と並んでいる。大石主税の墓は墓所の左角である。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 浅野内匠頭長矩夫人(瑶泉院)之墓
墓所の配置は別に案内があるが、入ってすぐの右手にある。その左が浅野長矩公之墓である。
赤穂義士の墓は区切られており、大石内蔵助の墓は石垣で隔てられているが浅野長矩公之墓の隣である。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 浅野長矩公之墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 浅野長矩公之墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に司十七士が結集して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に我きを求めた。義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。翌元禄十五年二月四曰、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。
附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜剱信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。
図の上段と右は細川家、下段は水野家、左は松平家、中央は毛利家である。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 義士墓解説 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 墓所全景
普段は参拝客も殆ど無く、線香を供える人もいないので墓所入口で全体が一望できる。
しかし、300年祭では土曜日で時間も遅かったこともあり、やっと立ち入っても線香の煙がモウモウとしており、参拝どころではなかった。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 水野家御預けの義士の墓
それぞれの墓には氏名と行年が書かれた木札が立てられており、目的の義士の墓が見つけやすくなっている。普段はこのような札はなく、摩滅しているものもあって入口の義士墓解説で確認している。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 細川家御預けの義士の墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 毛利家御預けの義士の墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 細川家御預け 大石内蔵助良雄之墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 細川家御預け 大石内蔵助良雄之墓
戒名の法則
右に俗名の浅野内匠頭家来大石内蔵助良雄、左に行年四十五歳と書かれている。中央が戒名で、本来の忠誠院空浄居士が刃劔で囲まれている。即ち忠誠院「刃」空浄「劔」居士である。 これは名誉刑の切腹をした義士とはいえ罪人であり、自刃した武士の戒名の命名法である。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 細川家御預けの義士の墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 毛利家御預けの義士の墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 松平家御預け 大石主税良金之墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 松平家御預けの義士の墓 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所
殆どの人が入口で一束100円の線香を買い、大石内蔵助などお気に入りの義士に線香を手向けていくため、狭い境内はモウモウとした煙で覆われていく。そのため、元々摩滅している墓の文字は読めなくなっていく。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 墓所門 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 参道の階段を下りる |