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団子坂通り 団子坂上 森鴎外 観潮楼跡
(仮称)森鴎外記念館(前本郷図書館鴎外記念室)は、現在建設中です。
平成24年秋(森鴎外生誕150周年)に、開館を予定しています。 |
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団子坂通り 団子坂上 森鴎外 観潮楼跡
工事中であるが、かつては本郷図書館として使われていた。 |
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団子坂通り 団子坂上交差点 |
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団子坂通り 団子坂由来
団子坂は、潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」 (御府内備考)
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 |
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団子坂通り 団子坂下交差点で左折、不忍通りへ |
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不忍通り 東西めぐりん #13 千駄木駅バス停
文京区のB−ぐるバスと、台東区の東西めぐりんバスとは、団子坂下交差点で乗り換えることができる。 |
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不忍通り NTT敷地脇で右折
分かりにくいが、不忍通りの反対側にはローソンがある。 |
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突き当りを左折、谷中よみせ通りへ |
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谷中よみせ通り 右折して谷中銀座へ
谷中よみせ通りをそのまま北上すると、道灌山通りに出て、右折すると西日暮里駅に向かう。 |
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谷中銀座
谷中銀座は下町を代表する商店街の一つだが、道幅が狭く、いつも混み合っている。中年女性のグループがマップ片手に歩き回るのが常態化している。 |
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谷中銀座 メンチカツの有名店 肉のサトー
谷中銀座にはメンチカツの有名店が2軒あり、手前の鳩山元首相が食べた店は12時から販売である。店頭には所狭しと写真や色紙が飾られている。 |
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谷中銀座 |
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谷中銀座 夕やけだんだん
JR日暮里駅から御殿坂を西に進むと、谷中銀座に降りる坂があり、「夕やけだんだん」と呼ばれる。
日暮里は江戸時代に「ひぐらしの里」と呼ばれるほど夕焼けの美しい所で、「夕やけだんだん」は一般公募で名付けられた。谷中ぎんざ商店街を舞台としたNHKの連続テレビ小説「ひまわり」で有名になった。
昔は西空に富士山が見えた、とのことだが、マンションが建ち並び、何回か来たが見えたことはない。 |
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御殿坂 経王寺前の細道が諏訪台通り(初音のみち)
細道なので見落としやすいが、谷中霊園の西口前を通り、三崎坂を経て団子坂下交差点に向かう道として便利である。 |
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御殿坂 経王寺 |
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御殿坂 経王寺
夕やけだんだんから御殿坂を少し進んだ所にある。
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。
明暦元年(一六五五)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
慶応四年(一八六八)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 |
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御殿坂 経王寺 山門の銃弾痕 |
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御殿坂 経王寺 |
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御殿坂 経王寺前の細道が諏訪台通り(初音のみち) |
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諏訪台通り(初音のみち) 修復工事中の朝倉彫塑館
近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうががえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が疏菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園事例としても貴重である。
昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十ー年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡)
明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) |
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長安寺前で左折、谷中霊園 ぎんなん通りへ |