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桜が満開の飛鳥山公園 多目的広場 飛鳥舞台
飛鳥山交差点から飛鳥山公園に入ると多目的広場で、左に木張りの飛鳥舞台がある。以前休日に公園に来た時、花見のアトラクションが行われていた。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 多目的広場
右側は何もない広場で、普段は子供たちが遊んでいるが、花見のシーズンなので閑散としている。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 明治維新百年植樹記念碑
飛鳥舞台の脇から遊歩道に出た所に記念碑があり、大きな台座は格好の宴会場になっており、酒盛りが行われていた。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道を南下 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑
桜の賦は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。
この賦は象山50歳(万延元年 1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵されている。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑
石碑も案内板も摩耗が激しく、読みにくい。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道を南下
満開になったばかりなので遊歩道には花びらがそれほど落ちていない。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道を南下 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道を南下 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山の歴史碑
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。 ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この上の旭重山(現在の展望台の所)に飛鳥明神が祀られていたからと伝えられています。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文ニ年(一七三七)に碑を建立した。 石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。 碑は、総高二一八.五cm、厚さ三四.五cm。元亨年中(一三二一〜二四)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道 明治三十七八年 戦役記念碑
児童エリアの手前にあり、都内のあちこちにある日露戦争の戦勝記念碑である。普通表面にある揮毫者の名前はない。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 児童エリア
花見に来た家族に連れられた乳幼児がいつもより人数が多く、駆けずり回っていて歩くのも大変である。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 児童エリア
遊具広場に続く芝生広場では花見の宴が繰り広げられている。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館 |
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桜が満開の飛鳥山公園 遊歩道を南下 |
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桜が満開の飛鳥山公園 渋沢資料館 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 入口
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘」跡です。約28,000uの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。
南出入口の手前、左手に旧渋沢庭園の入口がある。開放時間に制限があるが、入場は無料である。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けをした陶板が用いられている。「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 晩香廬
近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が永年の厚誼に謝して贈った小亭である。 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた淡い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお、晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自身の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 晩香廬 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 渋沢栄一銅像
庭園の南角にひっそりと立てられている。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 渋沢栄一銅像前 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は11:10で、熱中症計の温度は24,4℃、湿度は27%である。
天気もよく、薄手の春用長袖シャツだけなのに、汗だらけである。 |
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桜が満開の飛鳥山公園 南出入口を出て左折、本郷通りへ |
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桜が満開の飛鳥山公園 南出入口 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。 渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入りロとなる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣エの「青淵文庫」、このニ棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督をしています。当時の世界的なデサイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建築物)に指定されました。 |
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本郷通り 飛鳥山公園 桜が満開の駐車場 |