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本郷通り 駒込橋交差点 六義園 染井門
いつもは閉門の六義園の染井門が桜祭りに合わせて臨時開門されている。正門の名物の枝垂れ桜を見るため、入場を考えていたが、右手の煉瓦塀沿いに折り返して並ぶ長い列を見て断念した。 |
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本郷通りを南下 |
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本郷通り 六義園入口の標識に従い右折
写真では標識がしっかり見えるが、直前まで自転車が停まり、2人の女性が立っていて標識は全く見えなかった。標識が見えないのが常態なので右のコンビニを目標にしないと見落とす。 |
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六義園 正門
普段は入園に便利な駒込橋交差点の染井門は閉鎖されているので、正門が混雑している。染井門ほど入場待ちの列は長くないが、園内を見ると正門近くの枝垂れ桜付近は混雑しており、入園は断念した。 |
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六義園の煉瓦塀沿いに南西に進む |
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突き当りで左折 |
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文京グリーンコート前交差点で右折、不忍通りへ |
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不忍通り 都立小石川中等教育学校
千石一丁目交差点手前にあり、かつての都立小石川高校(旧制府立5中)だったが、中高一貫校となり、平成23年3月に高校は閉校となった。 |
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不忍通り 千石一丁目交差点で白山通りを渡る |
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不忍通り 千石一丁目交差点で白山通りを渡る |
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不忍通り 明化小入口交差点 |
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不忍通り 猫又坂を下る
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。 また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。 むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い憎が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。 |
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不忍通り 千石三丁目交差点で千川通りを渡る
猫又坂を下りきった所が千石三丁目交差点である。 |
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不忍通り 千石三丁目交差点で千川通りを渡る
左折して千川通りに入ると、 窪町東公園交差点があり、そこから湯立坂を上ると、守山藩松平家の上、中屋敷だった占春園や、窪町東公園の桜並木がある。 |
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不忍通り 大塚四丁目交差点
交差点で左折すると教育の森公園があり、その北東の角に筑波大附属小や、桜並木の窪町東公園がある。 |
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不忍通り 大塚三丁目交差点で白山通りを渡る |
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不忍通り 大塚三丁目交差点から富士見坂を下る |
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不忍通り 大塚三丁目交差点から富士見坂を下る
坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
とりかごをてにとりさげてともわがとりかひにゆくおほつかなかまち 会津八一(1881〜1956)
この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
窪田空穂(1877〜1967) |
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不忍通り 護国寺 |
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不忍通り 護国寺 惣門 |
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不忍通り 護国寺 惣門 |
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不忍通り 護国寺 惣門
この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門 という、性格をあわせもっている。形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以大の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容をもっている。当寺が幕府の厚い疵護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財である。 |
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不忍通り 護国寺交差点 |
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不忍通り 護国寺交差点 護国寺 仁王門
護国寺は真言宗豊山派の大本山。天和元年(1681)、徳川5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いにより創建し、後に将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。元禄時代の本堂、近江三井寺より移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されているほか、仁王門、惣門など創建当時を偲ばせる堂宇が数多くある。 明治期以降は著名人等の墓所となり、三条実美、山縣有朋、田中光頭、大隈重信などが眠る。 |
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不忍通り 護国寺交差点 護国寺 仁王門
八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。
正面(南側)の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
護国寺の山門の朱の丸柱
強きものこそ美しくあれ (窪田空穂) |
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護国寺 表参道 |
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護国寺 表参道 大本山護国寺の縁起
真言宗 豊山派 大本山 護国寺
当寺の創建は天和元(一六八一)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、挂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護国寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まる。
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は、元禄十年(一六九七)年正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年八月四日落慶式が挙行された。
後に六臂如意輪観世音菩薩(現本尊秘仏)が安置される。 元禄時代の建築技術の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞賛される。
もろもろの くのうをすくう
観世音 大悲の恵み
尊うとかりける
月光殿 国指定重要文化財は近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物である。平成二十五年十一月、月光殿文化戝保存修理工事が完了する。
護国寺の茶席 境内には月窓軒、化生庵、艸雷庵、不昧軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数奇を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物である。 |
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護国寺 表参道 護国寺 境内案内図 |
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護国寺 表参道 大本山護国寺案内
山 号 神齢山 悉地院
本 尊 如意輪観世音菩薩
開 基 天和元年(一六八一年}亮賢僧正
宗 派 真言宗豊山派
総本山 長谷寺 奈良県桜井市朷瀬
祖 師 宗 祖 弘法大師(空海)(七七四〜八三五年)
中興祖 興教大師(覚鑁)(一〇九五〜一一四三年)
派 祖 専誉僧正 (一五三〇〜一六○四年)
開 宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって、中国
からもたらされ、わが国で開宗されました。
教 え 大日如来を中心とした曼荼羅思想などです。
札 所 弘法大師霊場御府内八十八ヶ所第八十七番 帝都
名所七観音第七番 江戸三十三観音札所第十三番
お 経 般若理趣経、観音経、般若心経、。光明真言
文化財 国指定重文・本堂、月光殿、尊勝曼荼羅図、金銅五
鈷鈴、諸寺縁起集、綸子地梅樹模様染繍振袖、漁夫
図(張平山筆)
行 事 修正会(元旦)、大般若会(正月三日)、節分会追
繍式(二月三日)、花まつリ(四月第一日曜日)、
観音祭四万六千日(七月九日、十日) |
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護国寺 表参道 水屋、不老門
両脇に水屋がある階段を上ると不老門であり、その先に護国寺の本堂がある。本堂の右奥に山県有朋、大隈重信などの明治の元勲の墓所がある。
本堂の参拝も考えたが、持病の腰痛が気になり、断念した。 |
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護国寺 仁王門 灌頂会
花まつりが近いせいか、仁王門に小さな仏像があり灌頂会ができる。 |
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護国寺交差点で右折、不忍通りへ
直進すると音羽通りで江戸川橋に向かう。 |