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都道神田白山線(三崎坂) 次の交差点で左折、よみせ通りへ |
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よみせ通り 福丸饅頭(名物10円まんじゅう)
1個10円の小さな饅頭で有名な店である。但し10個単位でしか買えないので、実際は100円饅頭である。
左の建物が撤去されて更地になっていた。 |
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よみせ通り メインストリート入口のゲート
よみせ通りは不忍通りの東側を並行する商店街で、途中に下町屈指の商店街である谷中ぎんざが右手にある。左折して谷中ぎんざを東に進むと、有名な「夕やけだんだん」の坂を上り、直進すると日暮里駅に出る。
ゲート中央にはよみせ通りの出口近くにある延命地蔵尊が描かれている。 |
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よみせ通り 右折して谷中ぎんざへ
谷中よみせ通りをそのまま北上すると、道灌山通りに出て、右折すると西日暮里駅に向かう。 |
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谷中ぎんざを東進
さすがに年末で観光客は少ないが、シーズン時には中高年の女性グループが店に屯して賑わっている。 |
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谷中ぎんざを東進 |
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谷中ぎんざを東進 |
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谷中ぎんざ 夕やけだんだん
日暮里は江戸時代に「ひぐらしの里」と呼ばれるほど夕焼けの美しい所で、「夕やけだんだん」は一般公募で名付けられた。谷中ぎんざ商店街を舞台としたNHKの連続テレビ小説「ひまわり」で有名になった。 |
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谷中ぎんざ 夕やけだんだん
夕やけだんだんを上った右手に桜の老木があり、満開時には人気であったが、いつ倒壊してもおかしくない、として地元の反対も強かったが切り倒された。 |
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御殿坂 経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。 明暦元年(一六五五)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
慶応四年(一八六八)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 |
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御殿坂 経王寺 |
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御殿坂 経王寺 山門の銃弾痕
大人の指が楽々入るほど大きな銃弾の痕が山門の左右にいくつも開いている。 |
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御殿坂 経王寺 |
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御殿坂 経王寺前で右折、諏訪台通り(初音のみち)へ
初音のみちは、旧初音町に因み、初音とは、その年に初めて鳴く鴬などの声のことである。初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鴬谷と呼ばれるところがあったことから、鴬の初音にちなんで付けられた。
細道なので見落としやすいが、谷中霊園の西口前を通り、三崎坂を経て団子坂下交差点に向かう道として便利である。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館
平成21年4月1日から25年3月まで、保存修復工事のため、長期休館となっていた。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館
近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうががえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が疏菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園事例としても貴重である。
昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十ー年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 |
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諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺
赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。
寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(一七一六)観音寺と改称した。
本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永四年(一七〇七)三月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 |
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諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 |
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諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 赤穂浪士慰霊塔 宝篋印塔
左の小ぶりの塔が慰霊塔である。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(狩野芳崖墓)前で左折、谷中霊園へ |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(狩野芳崖墓) |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(狩野芳崖墓)
板碑(台東区有形文化財)
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備え
て供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。
板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子〈キリーク〉が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
一、建治二年(一二七六)四月 円内にキリーク種子を刻む
二、弘安八年(一二八五)八月 上部にキリーク種子を刻む
三、正安二年(一三〇〇)二月 「比丘尼妙阿」と刻む
四、応永三年(一三九六)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む
長安寺の開基は、寛文九年(一六六九)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ四〇〇年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。
平成三年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(狩野芳崖墓)
狩野芳崖墓
明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。 明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正六年造立)が建つ。
平成五年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(狩野芳崖墓) 狩野芳崖夫妻の墓
墓地にそって本堂横の道を歩くと案内があり、墓がある。周りの墓に比べて小ぶりのため、案内板や供養の花がないと見つけられない。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺門前の道を進むと谷中霊園へ |