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桜田通り 高輪台交差点の右の小路に入る
国道1号は左手を走り、浅草線は右の小路の下を走る。10年前に浅草線沿線を歩いた時は国道1号を直進し、明治学院前交差点で右折、泉岳寺駅に向った。今回は赤穂義士の所縁の高輪を歩くため右折する。 |
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突き当たりの高輪3丁目交差点で左折、二本榎通り(メリーロード高輪)へ
高輪台交差点からすぐの交差点で、右折するとグランドプリンスホテル新高輪を経て品川駅に着く。突き当たり正面は衆議院宿舎である。
左折するとメリーロード高輪で、大石内蔵助等が自刃した細川藩邸跡、伊皿子坂交差点を通って、田町の慶応大学正門前に出る。
この交差点から伊皿子交差点まで、品川駅と田町駅を循環する港区のコミュニティバスの「ちぃばす 高輪ルート」が走っており、便利である。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪)を北上
二本榎通りは旧東海道で、尾根伝いの道である。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 高野山東京別院
高野山東京別院の境内は広いが、その割には建物などが少なく、ガランとした感じである。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 高輪警察署前交差点 高輪消防署二本榎出張所
特徴ある建物は高輪警察署の向かいにあり、高輪消防署二本榎出張所である。
明治41年7月1日、第二消防署二本榎派出所として発足、昭和8年12月28日に現庁舎が竣工した。
建物は、鉄筋コンクリート造りの地上3階建てで、海抜約25メートルの位置にあり、当時は周囲に高い建物もなく、東京湾を眼下に眺望できた。
1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げとなっている。
また、外壁はクリーム色の磁器タイルで覆われ、玄関部分はすべて御影石で造られており、扉は木製となっている。
3階の円形講堂は8本の梁(はり)が中心に集り、10個の窓部アーチと一体になった独特の意匠である。
第一次世界大戦後の近代的なドイツ表現主義という建築様式で、曲線と曲面をモチーフとした流れるような躍動感のあるデザインを特徴としている。
3階から上は円筒形の望楼(ぼうろう)となっており、昭和46年まで火災の見張りに使用されていた。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 高輪警察署前交差点 二本榎の由来 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 高輪警察署前交差点 二本榎の由来
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を『高縄手』と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま『二本榎』(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 高輪警察署前交差点 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は11:15で、温度24.1℃、湿度31%、熱中症計はほぼ安全である。
さすがに10月中旬であり、空気はさらっとして気持ち良い。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 東海大学 高輪キャンパス
高輪二丁目交差点付近には東海大学を始め、付属高校、中学校の校舎が並ぶ。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) ちぃばす(高輪ルート) #144 バス停 高輪二丁目
品川駅から田町駅に向かう往路では2回このバス停に停まる。1回目は伊皿子交差点で魚籃坂を下って高輪支所に行き、2回目はそのまま三田に向かう。バスも高輪支所に行く、行かないを乗車時に案内している。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
高輪二丁目バス停の先にある都営高輪一丁目アパートの奥にあるが、これが「都営」と思うほどややけばけばしい色彩のアパート群である。
摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑がなければ見落とすし、自刃跡地も一番奥なので分り難い。
この地については、細川藩中屋敷とする資料もある。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑によれば、下屋敷とあり、ここでは後者を採った。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
都営アパートの奥にひっそりとある。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
大石良雄外十六人忠烈の跡
この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(一七〇一)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕龍と予備として五挺の駕龍を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
元禄十六年(一七〇三)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽とお御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大番院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
赤穂義士史跡碑
正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
大石内蔵助以下16名の名前と享年が書かれている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷)
庭であるが、特に変わった様子もない。雑草に覆われているが、5年前に歩いた時はきれいに除草されていた。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川藩 下屋敷) |
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細川藩下屋敷から右手に進む |
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突き当りで右折、二本榎通り(メリーロード高輪)へ
左折すると「旧細川邸のシイ」と言われる椎の巨木があり、坂を下ると白金高輪駅前の高輪コミュニティぷらざに出る。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 旧高松宮邸(高輪皇族邸)
伊皿子交差点手前にあり、有栖川宮家を継いだ高松宮家も廃絶となり、現在は無住の高輪皇族邸となっている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 伊皿子交差点で右折、都道415号高輪麻生線 伊皿子坂を下る
直進すると慶応大学正門近くに出る。左折して魚藍坂を下ると、赤穂義士の切腹を提言した荻生徂徠の墓がある長松寺がある。右折すると伊皿子坂を下り、泉岳寺に至る。 |
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都道415号高輪麻生線 伊皿子坂を下る |
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都道415号高輪麻生線 伊皿子坂を下る
明国人伊皿子(いんぺいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも「いいさらぶ(意味不明)」の変化ともいう。 |
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都道415号高輪麻生線 伊皿子坂を下る |
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都道415号高輪麻生線 突き当りで右折、泉岳寺へ |
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泉岳寺 中門
交差点を右折すると正面に泉岳寺の中門が見える。泉岳寺については別ページにまとめた。 |
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都営 浅草線 泉岳寺駅
泉岳寺交差点角にある。 |
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都道415号高輪麻生線 泉岳寺交差点で左折、第一京浜へ |