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小滝橋通り 界隈案内図 |
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小滝橋通りを北上 西新宿保健センター交差点
様々な大衆向け飲食店が並び、下町的雰囲気の通りである。 |
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小滝橋通り 北新宿百人町交差点で右折、職安通りへ
小滝橋通りは北上し、小滝橋交差点で早稲田通りと合流する。 |
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小滝橋通り 北新宿百人町交差点で右折、職安通りへ
以前は交差点の左は工事中であったが、全面開通していた。左折すると淀橋交差点で青梅街道に合流する。 |
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小滝橋通り 北新宿百人町交差点で右折、職安通りへ
右折すると歩道橋の先に中央線や総武線用の高架と、山手線用の高架の2つが続けてある。 |
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職安通り 山手線、西武 新宿線の高架下を進む |
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職安通り 新宿公共職業安定所
JR山手線のガード下を通り過ぎると、右側に新宿職安(ハローワーク新宿)が見える。 |
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職安通り コリアンタウン
昨今は新大久保駅前のほうが賑わっているが、元々は職安通りのコリアンタウンが有名である。
もっとも片道1車線で歩道も狭い新大久保のほうが片道2車線、広々とした職安通りよりもゴチャゴチャ感があって雰囲気があることも理由の一つであろう。 |
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職安通り コリアンタウン
ここでは諺文表記があって、下にコメント的に日本語が書かれている。 |
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職安通り 鬼王神社前交差点
交差点で右折するとすぐ左手に稲荷鬼王神社(西大久保富士)がある。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士)
江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫れ物に特効があるとされた。邪鬼の頭上に手水鉢をのせた珍しい水鉢がある。本殿左奥の富士塚は昭和43年の社務所再建の際に分けられて現在は2つの山にわけて間の参道を富士山の胎内に通じる道に見立てている。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 鬼王神社の水鉢
文政年間(一八一八〜一八二九)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる仏伝説を記した石碑があり、これによると、
『この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保四年(一八三三当社に寄進された。』
台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。
この水鉢は、高さ一メートル余、安山岩でできている。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 鬼王神社の水鉢
鳥居の左側の石柱裏にあり、写真を撮るのに苦労したが、、水鉢の下に鬼がいる。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 社殿
拝殿の後ろに富士塚があり、見た後職安通りに戻る。新宿周辺には富士塚が多くあり、例えば青梅街道沿いの成子天神社には見事な富士塚がある。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚
規模としても小粒であるが、境内を掃除していた老女が戦災に遭うまでは境内一杯に広がる大きな富士塚であった、開山日には富士講の人たちが登っていた、などと説明してくれた。この富士塚の周囲の岩は、元々大きな富士山を構成していたとのことである。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚 |
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職安通り 新宿七丁目交差点 島崎藤村旧居跡
明治通りと交差する新宿七丁目交差点手前にある。
詩人・小説家の島崎藤村(一八七二〜一九四三)は、馬籠(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治二六年(一八九三)『文学界』の創刊に参加。明治三〇年の『若菜集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。 明治三八年(一九〇五)四月二九日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌三九年十月二日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保四○五番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。 この頃から小説に転向した藤村は、ここで長篇社会小説『破戒』を完成し、作家として名声を不動のものとした、 しかし一方で、転居早々三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。 |
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職安通り 新宿七丁目交差点 島崎藤村旧居跡 |
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職安通り 新宿七丁目交差点で明治通りを渡る |
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都営 大江戸線 東新宿駅
新宿七丁目交差点を渡った所にある。 |