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清澄通り JR総武線の高架下を南下
本所元禄市はオプションであり、時間と距離とは目安である。
【撮影記録】
平成24年 12月 8日 快晴
12:05〜12:35 1,900歩
都営両国〜本所元禄市〜両国回向院〜JR両国 |
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清澄通り 緑一丁目交差点で右折、京葉道路へ |
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京葉道路 伊藤宗印屋敷跡
明治十二年(一八七九)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。 三家とも初めは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。 |
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京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑
本所警察署は、京葉道路の左手にあり、西側の壁の後ろに殉職した警官の慰霊碑がある。関東大震災で最大の犠牲者を出した横網町公園(旧陸軍被服廠跡)は、本所警察署の近くで、一説では広く、安全な横網町公園に避難するよう、当時の署長が指示したために被害が大きくなった、とも言われる。 |
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京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑
整備のためか、慰霊碑は全くなかった。 |
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京葉道路 ファミリーマート角で左折 |
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両国公園と両国小学校の間の交差点で右折
左の木々は両国公園で勝海舟生誕の地の碑がある。右の建物は両国小学校である。 |
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両国小学校 芥川龍之介 文学碑(杜子春)
両国小学校正門脇にある碑で、ここで左折、プール沿いに南下する。 |
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両国小学校 芥川龍之介 文学碑(杜子春)
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。 本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだで場所で、「大道寺伸輔の 半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。 この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。 |
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平成24年度 本所元禄市
地元の商店街だけでなく、東北や愛知県吉良町(現西尾市)の商店街も屋台を出している。 |
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平成24年度 本所元禄市 ちゃんこ屋台
同じような屋台は何軒かあるが、この屋台はいつも盛況で、ちゃんこの大鍋は次々に空になっていくので、新宿を9時に出て昼食時の12時過ぎに着くようにした。 |
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平成24年度 本所元禄市 ちゃんこ屋台
量も多く鳥ベースのちゃんこで、1杯500円と手頃である。 |
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平成24年度 本所元禄市 ちゃんこ屋台
並んだ直後に新しくセットされた大鍋はアッと言う間に半分となり、食べ終えた10分後には別の鍋がかけられていた。この時点で空いた大鍋は7個であり、人気の程が伺われる。 |
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平成24年度 本所元禄市 吉良邸正門跡
ちゃんこ屋帯前のビルの前に設けられている。
この辺りに吉良邸正門がありました。
元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、寅の刻(午前四時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射かけて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。
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平成24年度 本所元禄市 和太鼓演奏
ちゃんこ屋台の南側に設けられており、地元の小中学生が演奏する。 |
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平成24年度 本所元禄市 突き当りで右折、馬車通りへ
吉良邸跡に行くためにはちゃんこ屋台前で右折するが、混雑して行くことができなかった。 |
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平成24年度 本所元禄市 馬車通り 地元商店街の衣料品販売
西の両国橋を渡った所には、衣料品問屋街である馬喰横山商店街がある。ブランド品はないが、値段は安い。 |
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平成24年度 本所元禄市 右折して吉良邸跡に向かう |
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平成24年度 本所元禄市 右折して吉良邸跡に向かう |
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平成24年度 本所元禄市 |
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平成24年度 本所元禄市 本所吉良邸跡(本所松阪町公園)
吉良上野介と大石内蔵助が談笑する不思議な光景である。 |
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平成24年度 本所元禄市 本所吉良邸跡(本所松阪町公園) |
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平成24年度 本所元禄市 本所吉良邸跡(本所松阪町公園) 松坂稲荷大明神
神号は松坂稲荷大明神である。 吉良邸は本所松坂町公園となっているが、白壁に囲まれた小さな神社である。
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、その水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷宮され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当初に遷座されました。 |
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平成24年度 本所元禄市 本所吉良邸跡(本所松阪町公園) 吉良上野介義央公座像
他の場所は混雑しているのに見物者がいないのが不思議である。経緯が書かれた銅版が像の後ろにあるが、写真を撮ったり読むのは難しい。
平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。 岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山 隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルにそのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。 据え付けた台座は御影石を使用する。 本像制作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現 西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。 平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。 |
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平成24年度 本所元禄市 本所吉良邸跡(本所松阪町公園)
本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。 その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。 昭和九年三月地元町会の有志が、世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。 |