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六波羅蜜寺前の道を北上、突き当りで右折し松原通へ |
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六波羅蜜寺前の道を北上、突き当りのみなとや幽霊子育飴本舗
みなとや幽霊子育飴本舗の公式ホームページによる由来記である。よくある話ではあるが。
由来
〜母の深い愛情の物語〜
命をつないだ飴の由来 今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て
土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし
妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜なよな飴を
買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。
此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高吊な僧になる。
寛文六年三月十五日、六十八歳にて遷化し給う。されば此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と
唱え盛んに売り弘め、果ては薬飴とまでいわるゝに至る。
洵に教育の上に、衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外に
なしと今に及んで京の吊物の吊高き品となれりと云う。らんすい
亡くなった母の魂が、わが子のために飴を届け、大切な命を
守りぬいたという言い伝えをみなとやでは450年以上も伝え
続けています。京都にお越しの際は、お店にお越しいただき、
命をつないだ飴を堪能してみてください。 |
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松原通を東進 奥にホテル ザ セレスティン京都祇園が見える道を左折すると建仁寺へ
案内がないので分かり難いが、奥にホテル ザ セレスティン京都祇園が見える道を左折すると建仁寺に向かう。今年(令和元年)の祇園祭の翌日に散策した時は建仁寺から来て六道珍皇寺に向かった。 |
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松原通を東進 |
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松原通を東進 六道珍皇寺 山門
左には小野篁卿旧跡、六道の辻の石柱がある。 |
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松原通を東進 六道珍皇寺 山門
六道珍皇寺では小野篁関連などの史跡、遺構は年に数回行われる特別拝観日でのみ、拝観料を支払って見物することができる。この日以外は全く見ることが出来ず、トイレも鍵がかかっていて利用できない。(特別拝観日にのみ利用できる、との注意書きが貼られている。)
今年(令和元年)の祇園祭の翌日に参拝した時は本堂前で入口を探していたところ、工事立会をしていた住職からこの事を説明されて知った。残念だがやむを得ないとして引き上げたが、たまたま大阪での会合の翌日である11月3日が特別拝観日であり、再訪した。 |
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松原通を東進 六道珍皇寺 山門
六道珍皇寺
『六道』とは、一切の衆生が、生前における善悪の業因によって必ずおもむかなければならない地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界をいう。その『六道さん』と呼ばれる六道珍皇寺は、山号を大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
本尊は、薬師如来(伝教大師最澄作と伝えられ、重要文化財)で、閤魔堂には、弘法大師(空海) 小野篁 閻魔大王(小野篁作と伝えられる)の三像が安置されている。また境内には、室町時代の石地蔵も数多くある。
当寺は、今から一二〇〇年前、平安朝・桓武天皇・延暦年間、慶悛僧都の開基で、宝皇寺、鳥辺寺、または愛宕(オタギ)寺とも称せられた。
宝皇寺は、古く東山阿弥陀ヶ峯(鳥辺山)山麓一帯に居住していた鳥部氏が氏寺として、建立したものであるが、今はその遺址は明らかでない。
その後、平安遷都に際し、愛宕の地が、諸人の墓所と定められたことに伴い、慶悛が珍皇寺を建てた(古事談)といわれ、ついで空海が興隆して東寺の末寺となり、小野篁が檀越となって堂塔伽藍が整備された。
寺域は墓所として有名な鳥辺野の入口にあり、六道寺ともよばれていた。 |
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六道珍皇寺 薬師堂 |
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六道珍皇寺 閻魔・篁堂
閻魔・篁堂
堂内には、右手に笏を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼王さらにはその傍らには、閻魔大王坐像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師(空海)坐像等を合祀する。
小野篁(八〇二〜八五二)は、参議小野岑守の子で、嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。
文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百般にも優れた文武両道の人物であった。
不羈な性格で「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」等にも数多く見られることより、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことからうかがえる。
また、篁は承和五年(八三八)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣と争い「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。しかし、承和七年(八四〇)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り承和十四年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。
篁が流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。
わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり船 |
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六道珍皇寺 閻魔・篁堂
小野篁・冥官・獄卒立像
木造、彩色、玉眼 三躯
制作者 院達
制作年代 小野篁立像 江戸時代 元禄二年(一六八九)
冥官像 江戸時代 元禄九年(一六九六)
獄卒像 江戸時代 十七世紀
平成二十六年(二〇一四)の三月二十五日から五月十八日まで、東京国立博物館(平成館)に於いての当寺の本山開山・栄西禅師八○○年遠諱慶讃記念事業「栄西と建仁寺」特別展覧会の開催にともない、関係専門家による出陳のための事前調査が行われている。
その調査の際に篁像々内から墨書の銘、銘札、経巻の発見があった。銘札には元禄二年(一六八九)、珍皇寺住持で建仁寺首座の石梯龍艮の発願により仏師法橋院達が造ったことが記されていた。
また、冥官の像内には元禄九年の同石梯による墨書銘が確認された。獄卒像の像内調査はその際出来なかったが、鎌倉彫刻に学んで迫力のある造形を作り上げた手腕は優れており、三躯とも院達の作である可能性はかなり高いとの報告を得た。 |
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六道珍皇寺 閻魔・篁堂
左から冥官像、小野篁卿木立像、獄卒像である。 |
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六道珍皇寺 閻魔・篁堂
閻魔大王 木座像である。 |
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六道珍皇寺 本堂
入口で拝観料600円を支払い、撮影禁止の地獄極楽図などを拝観する。
特別拝観日なので参拝客は多いが、六波羅蜜寺のような列をなす、というほどではない。 |
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六道珍皇寺 庭園 水琴窟
東京では珍しい水琴窟であるが、1週間前の時代祭ツアーで参拝したいくつかの寺院でも見かけた。但し、六道珍皇寺でもそうだがなかなか音色を聴くことが出来ない。 |
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六道珍皇寺 庭園
本堂内の仏像や絵画は撮影禁止であるが、庭園は撮影可である。 |
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六道珍皇寺 庭園 小野篁公 黄泉がえりの井水、冥土通いの井戸
手前の女性が見ているのが黄泉がえりの井水で、左奥が冥土通いの井戸である。 |
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六道珍皇寺 庭園 冥土通いの井戸
冥土通いの井戸は冥界への入口の井戸である。 |
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六道珍皇寺 庭園 小野篁公 黄泉がえりの井水
冥界からの出口の井戸で、地底百米(メートル)よりの浄水である。
堀川通北大路交差点に小野篁と紫式部の墓がある。両者の時代は異なるが、一説によると、「愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説」に基づく。 |
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六道珍皇寺 本堂前広場 |
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六道珍皇寺
地獄の冥官小野篁の伝説が残る 現世と冥界の境界に建つ寺
古来、化野、蓮台野とともに風葬の地として知らわていた鳥辺野。かつての五条通であった門前の松原道は鳥辺野へ亡骸を運ぶ際の通路てあった。現世から冥界へ行く際の入り口とされたこの寺の界隈にはにはさまざまな伝説が残る。
平安時代、五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰の麓一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。
都人たちは、人が、亡くなると亡骸を棺に納め、鴫川を渡り、鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を行い、この地で最後のお別われの後、隠坊により風葬の地である鳥辺山の麓へと運んでいった。
そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。
この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。
衆生は死後生前の業により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六種の冥界への入り口にあたり、こここそが人の世の無常とはかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。
この寺と冥界にまつわる伝説がもう一つある。それは、平安時代初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという。また、時としてはその出口として嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明冶頃まであった福生寺刀井戸を使ったとの俗説もある。近年隣接民有地(旧境内地)より、冥途からの帰路の出口に使ったと伝わる「黄泉がえりの井」も発見された。 |
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六道珍皇寺 山門
六道珍皇寺
大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
創建は平安時代に遡リ、かつては真言宗東寺に属していた。
中世期に兵禍によって荒廃したため、建仁寺僧のも聞溪良聰により南北朝時代に建仁寺所属となり、その再興がはかられ現在に至る。
寺域は、古来からの葬送の地、鳥辺野の麓で入口付近に当たることから、冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされた。
「六道」とは、仏教でぃう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の迷界をいう。
毎年、お盆にご先祖の精霊を迎えるため八月七日から十日の四日間は、「六道まいり」の行事が行われ大勢の参詣者が、冥土にも響くという梵鐘(迎え鐘)を撞き、亡者をこの世に呼び寄せる。
本尊は、平安時代前期の薬師如来坐像(重文)で、そのほか間魔堂には木造の閻魔大王坐像と冥官伝説をもつ小野篁の立像が祀られている。また、本堂裏庭には、夜毎に閻魔庁に出向くときに使ったと伝わる「小野篁公冥途通いの井戸」もある。 |