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圓珠院(大黒天)〜霊巌寺〜深川江戸資料館

【関連サイト】   大江戸線H2412(森下駅〜清澄通り〜深川 霊巌寺)

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清澄通りを北上 深川七福神 圓珠院(大黒天)の道案内 立て看板 清澄通りを北上 深川七福神 圓珠院(大黒天)の道案内 立て看板 

霊巌寺がある深川資料館通り手前に立て看板があり、深川七福神巡りは本来の目的ではないが、距離200mと書かれているので立ち寄ることにした。但し、実際には日蓮宗寺院が延々と続く寺町であり、感覚的にはだいぶ遠い気がした。
深川七福神 圓珠院(大黒天)に向かう寺町をひたすら歩く 深川七福神 圓珠院(大黒天)に向かう寺町をひたすら歩く 
深川七福神 圓珠院(大黒天)に向かう 歯神様の圓隆院 深川七福神 圓珠院(大黒天)に向かう 歯神様の圓隆院 

東京は下町。深川めしで有名な深川、江戸出開帳で知られる江戸十大祖師、深川浄心寺の塔頭のお寺です。
古くから当山に伝えられる“歯神さま”は、かつて歯ブラシを持ってお参りにくる子供達が多かったと伝えられております。また、相撲界の高砂一門の祖、初代高砂親方(高砂浦五郎)二代高砂親方が、当山の墓地に眠られております。
深川七福神 圓珠院(大黒天) 深川七福神 圓珠院(大黒天) 

由来

 円珠院は日蓮宗で、もとは浄心寺の塔頭の一つでした。創建の年は不明ですが、開山は義勝院日演(寛保元年 1741没)です。
 開基の円珠院は、永見重宣の娘で、のち永井讃岐守直允
の後室となりました。生年は不明ですが享保15年(1730)12月20日に没し、自ら開いた円珠院に葬られました。
 深川七福神のひとつ(大黒天)として親しまれています。
深川七福神 圓珠院(大黒天) 深川七福神 圓珠院(大黒天) 
深川七福神 圓珠院(大黒天) 深川七福神 圓珠院(大黒天) 
深川七福神 圓珠院(大黒天) 深川七福神 圓珠院(大黒天) 
深川七福神 圓珠院(大黒天) 深川七福神 圓珠院(大黒天) 

道順のご案内

○大黒天から毘沙門天へ
大黒天斜め前交差点を左に。左手に浄心寺を見ながら平野二丁目交差点を左折し、直進。(途中、左手に間宮林蔵の墓。)少し歩くと左側角に毘沙門天。(所要時間10分)

○大黒天から福禄寿へ
大黒天を出て左へ。すぐ左に曲がり、道なりに直進。清澄通りに出たら左へ。海辺橋を渡り、少し歩くと左手に福禄寿。(所要時間10分)
深川七福神 圓珠院(大黒天)の門を出て左折、すぐの交差点で左折 深川七福神 圓珠院(大黒天)の門を出て左折、すぐの交差点で左折 

圓珠院を出てすぐに玉泉院墓所のゲートがある。
 両側に日蓮宗寺院が並ぶ寺町を北西に直進 両側に日蓮宗寺院が並ぶ寺町を北西に直進 
 両側に日蓮宗寺院が並ぶ寺町を北西に直進 両側に日蓮宗寺院が並ぶ寺町を北西に直進 

日蓮宗の本立院で、斜め向かいに“歯神さま”の圓隆院がある。
清澄通りを北上 左折して深川資料館通りへ 清澄通りを北上 左折して深川資料館通りへ 

交差点名はなく、気をつけないと見逃すが、道の両脇に燈籠の深川江戸資料館の標識が立っている。
深川資料館通りを東進 深川資料館通りを東進 

深川資料館通りを東進して三ツ目通りに出て右折、南下すると東京都現代美術館(MO+)に出る。この美術館が一時休館中との小旗が掲げられている。
深川資料館通りを東進 霊巌寺 深川資料館通りを東進 霊巌寺 

 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。
 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。
深川資料館通りを東進 霊巌寺 深川資料館通りを東進 霊巌寺 
深川資料館通りを東進 霊巌寺 深川資料館通りを東進 霊巌寺 

門の左には「史跡 楽翁松平定信墓」と「都重文 銅造地蔵菩薩坐像」の石柱が立っている。
深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵 第五番 深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵 第五番 

像の高さは二・七三メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、享保二年(一七一七)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
 蓮台には数ケ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
  品川寺  品川区南品川三丁目
  太宗寺  新宿区新宿二丁目
  東禅寺  台東区東浅草二丁目
  霊巌寺  江東区白河一丁目
  永代寺  江東区(消滅)・・・深川不動尊に遺構あり
深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵 第五番 深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵 第五番 

銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)

 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七〇六)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び座台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩第六番は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。
 六地蔵のうち、霊巌寺の地蔵は第五番目で、享保二年(一七一七)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は二七三cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。
 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
深川資料館通り 霊厳寺 本堂 深川資料館通り 霊厳寺 本堂 
深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 

 松平定信(一七五八〜一八二九)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
 天明七年(一七八七)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(一七九三)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
 また朱子学者でもあり「花月草子」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。
深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 

墓所にはいくつかの墓があるが、どれが誰の墓なのかの案内はない。
深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 

墓碑として「楽翁公之墓」と書かれている。上が横の石柱で読めないが「故白」であり。「故白河藩主楽翁公之墓」と書かれている可能性がある。
深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 

墓所の右奥に二基の宝篋印塔が見えるが、誰のものかが分からない。
深川資料館通り 深川江戸資料館 深川資料館通り 深川江戸資料館 

当館には、江戸時代の深川の生活を再現した資料館展示室と、区民の方の催し物等の会場に最適な小劇場、レク・ホールがあります。長屋2棟をはじめ八百屋、春米屋、船宿、火の見櫓など実大建築物に生活用品具類を配し、さまざまな情景のもとに、江戸深川  の日常生活をそのまま再現展示しています。ここには最新の科学技術と古来の伝統技術が結集し、なつかしい人情と心意気の世界を目のあたりにくりひろげています。
深川資料館通り 江東区 白河出張所 周辺のご案内 深川資料館通り 江東区 白河出張所 周辺のご案内 

深川江戸資料館横に掲示されており、清澄庭園が近いことが分かる。



 
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