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深川資料館通り〜霊巌寺〜清澄庭園

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東京の名園 清澄庭園と清澄公園


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三ツ目通り 現代美術館前交差点の次の交差点で左折、深川資料館通りへ 三ツ目通り 現代美術館前交差点の次の交差点で左折、深川資料館通りへ 

深川資料館通りは、東京都現代美術館を三ツ目通りに沿って北上、清洲橋通りとの中間で左折、清澄通りに向かう道である。実際に歩くと、道のほとんどは花みずきの並木道で、花みずき商店街としてのイベントが行われている。
深川資料館通り(花みずき商店街)を西進 深川資料館通り(花みずき商店街)を西進 
深川資料館通り(花みずき商店街) 善徳寺 深川資料館通り(花みずき商店街) 善徳寺 
深川資料館通り 深川江戸資料館 深川資料館通り 深川江戸資料館 

深川資料館通りは、通りの2/3は花みずきの並木道だが、唐突に交差点を渡るとケヤキに替わり、深川江戸資料館に着く。
深川資料館通り 深川江戸資料館 深川資料館通り 深川江戸資料館 

当館には、江戸時代の深川の生活を再現した資料館展示室と、区民の方の催し物等の会場に最適な小劇場、レク・ホールがあります。長屋2棟をはじめ八百屋、春米屋、船宿、火の見櫓など実大建築物に生活用品具類を配し、さまざまな情景のもとに、江戸深川  の日常生活をそのまま再現展示しています。ここには最新の科学技術と古来の伝統技術が結集し、なつかしい人情と心意気の世界を目のあたりにくりひろげています。
深川資料館通り 深川江戸資料館 深川資料館通り 深川江戸資料館 
深川資料館通り 霊巌寺 深川資料館通り 霊巌寺 

松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。
 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。
深川資料館通り 霊巌寺 深川資料館通り 霊巌寺 
霊巌寺 本堂 霊巌寺 本堂 
霊巌寺 江戸六地蔵 霊巌寺 江戸六地蔵 
霊巌寺 江戸六地蔵 霊巌寺 江戸六地蔵 

像の高さは二・七三メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、享保二年(一七一七)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
 蓮台には数ケ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
  品川寺  品川区南品川三丁目
  太宗寺  新宿区新宿二丁目
  東禅寺  台東区東浅草二丁目
  霊巌寺  江東区白河一丁目
  永代寺  江東区(消滅)・・・深川不動尊に遺構あり
霊巌寺 江戸六地蔵 霊巌寺 江戸六地蔵 
霊巌寺 松平定信 墓所 霊巌寺 松平定信 墓所 

松平定信(一七五八〜一八二九)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子としで生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
 天明七年(一七八七)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(一七九三)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
 また朱子学者でもあり「花月草子」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。
霊巌寺 松平定信 墓所 霊巌寺 松平定信 墓所 
霊巌寺 松平定信 墓所 霊巌寺 松平定信 墓所 

墓所の詳しい説明はないが、塔の大きさから門の右手奥が松平定信の墓のように見えるが夫人の墓だそうである。
深川資料館通りを西進 深川資料館通りを西進 
深川資料館通り 突き当たり交差点で右折、清澄通りへ 深川資料館通り 突き当たり交差点で右折、清澄通りへ 

正面の木立は清澄庭園である。
清澄通り 清澄庭園の案内に従い左折、清澄庭園・中村学園通りへ 清澄通り 清澄庭園の案内に従い左折、清澄庭園・中村学園通りへ 

清澄庭園の入口は清澄通り沿いにはなく、清澄庭園・中村学園通りの奥にある。
ちなみに写真の案内標識は以前はなく、通りがこのような名称とは知らなかった。中村学園は清澄庭園前にある小規模な学校で、ELTボーカルの持田香織は卒業生である。
清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園沿いに西進 清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園沿いに西進 
清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園正門 清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園正門 

 江戸時代、ここは下総國関宿藩主久世家の下屋敷でしたが、明治11年に三菱財閥の岩崎弥太郎氏が買収し、岩崎別邸として造園されました。大正12年の震災のあと比較的被害の少なかった東半分の庭園を公園として東京市に寄付しました。
 全国各地から約60種におよぶ奇岩珍石が集められ、広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や涼亭と池のみぎわの美しさは、都内屈指の名園として知られています。
 昭和54年には、都の名勝第1号に指定されています。
清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園正門 清澄庭園・中村学園通り 清澄庭園正門 

清澄庭園は江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸と言われ、下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷を経て、三菱財閥の岩崎彌太郎が明治13年(1880年)に深川親睦園として開園した。
岩崎彌太郎の死後、弟の彌之助が隅田川の水を引き入れ大泉水を作ったり、各地から取り寄せた奇岩名石を配し、明治24年(1891年)に庭園として完成させた。しかし、関東大震災で大きな被害を受けた。
関東大震災で庭園は大被害を受けたが、その一方で避難場所としての役割を果たした。
 岩崎彌太郎の嗣子久彌は、この機能に注視し、被害の少ない 深川親睦園の東半分を東京市に寄付した。東京市は整備し、昭和7年(1932年)に 清澄庭園として開園した。更に昭和48年に庭園の西の隣接地を買収し、昭和52年に都立公園として清澄公園が開園した。



 
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