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万歩計



(From H14-10-28)

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森下〜清澄庭園〜門前仲町

【関連サイト】 都営地下鉄 大江戸線(平成14年)
東京の名園 清澄庭園・清澄公園
江戸の有名人の足跡 松尾芭蕉


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清澄通り 森下駅前交差点で新大橋通りを渡る 清澄通り 森下駅前交差点で新大橋通りを渡る 

交差点を渡った左側に、二ツ目通り(清澄通り)の由来の碑がある。
清澄通り 二ツ目通り(清澄通り)の由来 清澄通り 二ツ目通り(清澄通り)の由来 

 明暦三年(1657)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治二年(1659)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は竪川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋、・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは竪川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図会には五間掘りに架かる立派な弥勒寺橋と共に竪川二之橋通りの名が残されています。

二ツ目通りは清澄通り、五ツ目通りは明治通りの方が有名である。
清澄通り 「身につけよう江戸しぐさ」の幟 清澄通り 「身につけよう江戸しぐさ」の幟 

写真は「こぶし腰うかせは万国共通」であるが、いくつかのパターンがある。
清澄通り 常磐高橋交差点 たかばし のらくろード 清澄通り 常磐高橋交差点 たかばし のらくろード 

高橋手前の左手にある商店街である。のらくろは戦前の人気漫画で、サザエさんの長谷川町子の師でもあった田河水泡の家族から寄贈された遺品などを展示している森下文化会館(のらくろ館)がある。
清澄通り 小名木川に架かる高橋 清澄通り 小名木川に架かる高橋 
清澄通り 小名木川に架かる高橋 清澄通り 小名木川に架かる高橋 
都営 大江戸線 清澄白河駅 都営 大江戸線 清澄白河駅 
清澄通り 清澄三丁目交差点で清洲橋通りを渡る 清澄通り 清澄三丁目交差点で清洲橋通りを渡る 

この交差点の右手には大嶽部屋・大鵬道場や、北の湖部屋がある。
清澄通り 清澄庭園 清澄通り 清澄庭園 

清澄庭園の入口は右折し、小路を西進する。
清澄通り 清澄庭園 清澄通り 清澄庭園 

清澄庭園はフェンスが途切れた所に正門がある。

清澄庭園は江戸の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸と言われ、関宿の城主久世大和守の下屋敷を経て明治になり、三菱財閥の岩崎彌太郎が深川親睦園として買い取り、その後隅田川から水を引いて大泉水を作ったりした。関東大震災で避難場所としての価値に注目され、岩崎家から東半分を東京市に寄付された。戦後に西半分も清澄公園となった。
清澄通り 深川江戸資料館通り 清澄通り 深川江戸資料館通り 

清澄通りを挟んで清澄庭園の反対側に、深川江戸資料館通りがある。
深川江戸資料館通り 深川江戸資料館通り 

入ってすぐに寛政の改革を行った白河藩主松平定信の墓所があり、江戸六地蔵が置かれている霊巌寺がある。
深川 霊巌寺 深川 霊巌寺 
深川 霊巌寺 深川 霊巌寺 

松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。
 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。特に七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。
 明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巌寺にある墓は、明治3年に国の史跡に指定されています。
深川 霊巌寺 深川 霊巌寺 

左の灯籠脇に江戸六地蔵があり、本殿の左に松平定信の墓所がある。
清澄通り 霊巌寺 江戸六地蔵 清澄通り 霊巌寺 江戸六地蔵 
清澄通り 霊巌寺 江戸六地蔵 清澄通り 霊巌寺 江戸六地蔵 

像の高さは二・七三メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、享保二年(一七一七)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
 蓮台には数ケ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
  品川寺  品川区南品川三丁目
  太宗寺  新宿区新宿二丁目
  東禅寺  台東区東浅草二丁目
  霊巌寺  江東区白河一丁目
  永代寺  江東区(消滅)・・・深川不動尊に遺構あり
深川 霊巌寺 松平定信の墓所 深川 霊巌寺 松平定信の墓所 
深川 霊巌寺 松平定信の墓所 深川 霊巌寺 松平定信の墓所 

 松平定信(一七五八〜一八二九)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子としで生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
 天明七年(一七八七)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(一七九三)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
深川 霊巌寺 松平定信の墓所 深川 霊巌寺 松平定信の墓所 
深川江戸資料館通り 左折し、清澄通りへ 深川江戸資料館通り 左折し、清澄通りへ 

正面の木立は清澄庭園である。
清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 

仙台堀川に架かる海辺橋の手前の深川老人福祉センターの前にある。
滝沢馬琴の代表作である南総里見八犬伝、全106冊を表現したモニュメントである。

滝沢馬琴は江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四八)年十一月六日、八十二歳で病没しました。名は興邦、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。
清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 界隈案内図 清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 界隈案内図 

左端中央の赤印が現在地で、仙台堀川に架かる海辺橋の北詰である。右上の青いブロックは隅田川で、案内図の上が西、右が北である。
清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 
清澄通り 海辺橋南詰 松尾芭蕉 採荼庵跡 清澄通り 海辺橋南詰 松尾芭蕉 採荼庵跡 

松尾芭蕉が奥の細道の旅に出た時、この採荼庵から出発した。深川には芭蕉庵をはじめ多くの遺構がある。
清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 
都営 大江戸線 門前仲町駅 都営 大江戸線 門前仲町駅 




 
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