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清澄通りを南下 右折すると奥に清澄庭園入口がある
交差点名はなく、清澄庭園入口の案内が掲示されている。 |
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清澄通り 清澄庭園向いで左折、深川資料館通りへ
交差点名はなく、気をつけないと見逃すが、道の両脇に燈籠の深川江戸資料館の標識が立っている。 |
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清澄通り 清澄庭園向いで左折、深川資料館通りへ |
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深川資料館通り 霊厳寺
松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。 この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。 |
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深川資料館通り 霊厳寺 |
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深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵
像の高さは二・七三メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、享保二年(一七一七)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。 蓮台には数ケ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。 品川寺 品川区南品川三丁目 太宗寺 新宿区新宿二丁目 東禅寺 台東区東浅草二丁目 霊巌寺 江東区白河一丁目 永代寺 江東区(消滅)・・・深川不動尊に遺構あり |
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深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七〇六)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び座台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩第六番は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。
六地蔵のうち、霊巌寺の地蔵は第五番目で、享保二年(一七一七)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は二七三cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。 |
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深川資料館通り 霊厳寺 江戸六地蔵 |
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深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 |
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深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所
松平定信(一七五八〜一八二九)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
天明七年(一七八七)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(一七九三)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
また朱子学者でもあり「花月草子」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。 |
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深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所
墓所にはいくつかの墓があるが、どれが誰の墓なのかの案内はない。 |
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深川資料館通り 霊厳寺 松平定信 墓所 |
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深川資料館通り 深川江戸資料館
当館には、江戸時代の深川の生活を再現した資料館展示室と、区民の方の催し物等の会場に最適な小劇場、レク・ホールがあります。長屋2棟をはじめ八百屋、春米屋、船宿、火の見櫓など実大建築物に生活用品具類を配し、さまざまな情景のもとに、江戸深川の庶民の日常生活をそのまま再現展示しています。ここには最新の科学技術と古来の伝統技術が結集し、なつかしい人情と心意気の世界を目のあたりにくりひろげています。 |
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深川資料館通り 深川江戸資料館 |
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深川資料館通りを東進 深川江戸資料館東交差点
深川資料館通りはケヤキ並木であるが、交差点を渡ると唐突に花みずきとなり、通りの2/3は花みずきの並木となる。 |
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深川資料館通り(花みずき商店街)を東進
深川資料館通りを出た所にある東京都現代美術館の旗も掲げられている。 |
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深川資料館通り(花みずき商店街)を東進
材木に迎春の絵が描かれている。 |
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深川資料館通り(花みずき商店街)を東進 白河三丁目交差点 |
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深川資料館通り(花みずき商店街)を右折、三ツ目通りへ
交差点名はないが、西から東への一方通行であり、三ツ目通りから進入することは出来ない。 |