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音無橋〜飛鳥山公園(桜並木〜児童エリア)

【関連サイト】   東京の名園 王子 飛鳥山公園、名主の滝公園、音無親水公園
東京、横浜の桜並木探訪 4部作H2304(飛鳥山公園〜護国寺〜早稲田大学〜江戸川公園散策H230411)
満開の桜名所散策(王子〜六義園〜早稲田)H270331

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旧岩槻街道 音無橋 旧岩槻街道 音無橋 

音無橋

 音無橋の名の由来は、架橋されている石神井川に求められる。石神井川は、多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつて瀧野川あるいは、音無川と呼ばれていた。音無川の名は、紀州熊野権現本宮近くにある音無川に因んだものである。
 本橋は、昭和5年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。
旧岩槻街道 音無橋から見た音無親水公園 旧岩槻街道 音無橋から見た音無親水公園 

音無親水公園とはかなりの高低差があることが分かる。

例年ならば満開の桜並木を撮る人で音無橋はごった返す。
旧岩槻街道 音無橋交差点から飛鳥山公園へ 旧岩槻街道 音無橋交差点から飛鳥山公園へ 

旧岩槻街道はこの交差点から本郷通り(岩槻街道)と改称し、左からくる明治通りと合流する。明治通りは大きく左に曲がり、飛鳥大坂と言われるほどの坂となって、下った所には王子駅がある。

音無橋から本郷通へ進む横断歩道は右側にしかなく、左だと飛鳥大坂を下って行かないと横断の交差点はない。

例年通りなら左手には飛鳥山公園の桜並木が咲き誇っているはずだった。
本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園 本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園 
本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園交差点 本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園交差点 

この交差点で明治通りは右折する。

都内で唯一残る都電の路面電車である荒川線が明治通りを走る。都電荒川線は物珍しさもあって、普段から乗る人が多いが、花見シーズンは飛鳥山公園だけでなく、始発の早稲田界隈の神田川、荒川遊園地と言った桜の名所があり、臨時便増発や、満員通過さえある。
明治通りはこの交差点で右に曲がり、荒川線も少し先で一緒に曲がる。
本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園交差点 本郷通り(明治通り) 飛鳥山公園交差点 

音無川親水公園の状況から予想されたことではあるが、例年なら全山ピンク色の飛鳥山公園の趣は全く無い。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 

色取り取りのテントが設営されているが、歩いた日は金曜で桜祭りが翌日から行われる。しかし、例年なら背後の桜並木はピンク一色なのに、と開催者が気の毒になる。

これも今年は暖冬と言っておきながらしばしば寒の戻りで真冬の気候になったり、開花宣言(4日前)から1周間で満開といった気象予報士の責任である。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 飛鳥舞台 ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 飛鳥舞台 

飛鳥山交差点から飛鳥山公園に入ると多目的広場で、左に木張りの飛鳥舞台がある。以前休日に公園に来た時、花見のアトラクションが行われていた。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 飛鳥舞台から遊歩道へ ほとんど開花前の飛鳥山公園 飛鳥舞台から遊歩道へ 

飛鳥舞台の脇から遊歩道に出た所に小屋があり、その中に桜の賦碑がある。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑 

 桜の賦は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。

 この賦は象山50歳(万延元年 1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵されている。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 桜の賦の碑 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 

京浜東北線沿いに遊歩道を南下するが、花見の季節に冬枯れの桜並木を歩くのは虚しい。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 

正面に児童エリアの遊具が見えるので右折して飛鳥山三博物館に向かう。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山の歴史碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山の歴史碑 

飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この上の旭重山(現在の展望台の所)に飛鳥明神が祀られていたからと伝えられています。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 

八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(一七二〇)から翌年にかけて、ー二七〇本の山桜 の苗木を植栽した。元文二年(一七三七)にはこの地を王子 権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(ー三二ー〜三)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
  異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよ く知られている。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 ほとんど開花前の飛鳥山公園 桜祭り準備中の多目的広場 

ほとんど裸木の桜並木で花見の宴もないものである。花が散った後の桜祭りは珍しくもないが、その逆は聞いたことがない。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 明治三十七八年 戦役記念碑 ほとんど開花前の飛鳥山公園 遊歩道 明治三十七八年 戦役記念碑 

児童エリアの手前にあり、都内のあちこちにある日露戦争の戦勝記念碑である。普通表面にある揮毫者の名前はない。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 児童エリア ほとんど開花前の飛鳥山公園 児童エリア 

最近は保育園の運動場代わりに公園を利用するケースが多く、様々な保育園の帽子を被った幼児たちが遊んでいる。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館 ほとんど開花前の飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 広場 裸木の桜並木 ほとんど開花前の飛鳥山公園 広場 裸木の桜並木 

花見の時期にはこの桜の下での宴が多かった。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 ほとんど開花前の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 

飛鳥山公園の南端には柵で囲われた一角があり、旧渋沢庭園で北側に青淵文庫がある。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 渋沢資料館 ほとんど開花前の飛鳥山公園 渋沢資料館 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 入口 ほとんど開花前の飛鳥山公園 旧渋沢庭園 入口 

 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘」跡です。約28,000uの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。

南出入口の手前、左手に旧渋沢庭園の入口がある。開放時間に制限があるが、入場は無料である。
ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口を出て左折、本郷通りへ ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口を出て左折、本郷通りへ 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口 公園案内図 ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口 公園案内図 
ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫) ほとんど開花前の飛鳥山公園 南出入口 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫) 

 飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
 渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入りロとなる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣エの「青淵文庫」、このニ棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督をしています。当時の世界的なデサイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建築物)に指定されました。



 
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