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本郷通り 西ヶ原一里塚
本郷警察署の手前に2つの案内板があり、本郷通りの中洲のような場所に西ヶ原一里塚の碑がポツンとある。
かつて市電が開通する時この一里塚を撤去しようとしたが、渋沢栄一らが反対して残った、との謂れがあり、本郷通りの交通が激しいので一里塚の碑を撮るのは難しく、数回に一度しか撮れない。 |
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本郷通り 二木榎保存之碑
原文は句読点がないが、読み易くするため句点を付加した。
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東束市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
二本榎保存之碑
公爵 徳川家達 題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり。之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し。二本榎は実に其存するものゝ一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり。一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり。男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義捐を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す。今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる。予嘗て大日本史料 を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし。幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。
大正五年六月
文学博士 三上参次撰
阪 正臣書
廣群鶴刻
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり。虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり。今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり。 |
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本郷通り 西ヶ原一里塚
慶長九年(一六○四)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点にして全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、このエ事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。 |
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東京メトロ 南北線 西ヶ原駅 |
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本郷通り 花と森の東京病院
以前は国立印刷局東京病院だったが、2年前(平成25年)に社会医療法人社団正志会に委譲され、病院名も変わった。 |
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本郷通り 滝野川公園 |
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本郷通り 滝野川公園 |
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本郷通り 平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます、鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。 |
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本郷通り 平塚神社
長い参道で、平塚神社前交差点で左折して参道沿いに蝉坂を下ると京浜東北線の上中里駅に出る。 |
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本郷通り 旧古河庭園 正門
西ヶ原交差点の歩道橋前に旧古河庭園の正門がある。 |
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本郷通り 旧古河庭園 正門
旧古河庭園は明治の元勲陸奥宗光の別宅で、その後古河家が譲り受け昭和30年に東京都の管理となった。本郷通り沿いの英国風古典様式の本館を中心として、その前庭の欧風花壇及び南側の斜面を利用した池泉回遊式日本庭園よりなっている。正門から洋館へ進むと、洋館前にはバラ園や広い芝生があり、展望台の四阿からは崖下に広がる日本庭園が見える。洋風庭園の階段を下り、日本庭園に向かい左折して展望台の下の道を東進する。黒ボク石積、大きな奥の院型石造灯籠を見つつ、展望台の四阿下に着く。
日本庭園の心字池にある大島(仮称)へ入り、奥の院型灯籠、泰平型灯籠、庭園の景色を楽しんだ後小島(仮称)を経て庭園の南端散策道に進む。心字池には2つの島があり、名前が分からないので便宜的に北の大きな島を大島とした。見晴台で濡鷺型灯籠、十五層塔を見た後心字池に戻り、雪見型灯籠から東側散策道に進み、奥の院型灯籠、崩石積、大滝と経て、階段を上り展望台へ出て洋館前の芝生に戻る。
入場待ちの列があることと、桜の名所という程でもないのでパスした。 |
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本郷通り 旧古河庭園 正門
この庭園(面積30,780u)は、英国風古典様式の本館を中心として、その前庭の欧風花壇及び池泉回遊式日本庭園よりなっております。 もと古河氏の所有でありましたが、昭和三十年4月、東京都の管理するところとなりました。 本館及び前庭欧風花壇は、英国人ジョサイア・コンドル博士の設計によって、大正六年竣功したもので、また心字池を中心とする池泉回遊式日本庭園は、京都の庭師植治の作庭によるものでありますが、ともに和洋の様式が調和した稀にみる設計というべく、その文化財としての価値もまた大なるものがありますので、これを永く保存すると共に一般に公開するものです。 本園は平成18年1月26日に国の名勝に指定されました。 |
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本郷通り 西ヶ原交差点で右折、大炊介坂を下る |
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本郷通り 西ヶ原交差点で右折、大炊介坂を下る
西ヶ原交差点を曲がった所にある。
坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。 この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。 この辺りには江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。 |
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本郷通り 大炊介坂を下る |
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本郷通り 霜降橋交差点
大炊介坂を下りきった所にある交差点で、ここから妙義坂を上る。 |
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本郷通り 妙義坂を上る |
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本郷通り 妙義坂を上る
駒込駅の商店街に桜祭りのポスターが掲示されている。ここだけでなく、他の桜祭りも1週間後の4月5日となっている。桜は開花時期の予測が難しく、例年ならこれで良いが、今年(平成27年)は満開時期が1週間早く、葉桜祭となるだろう。 |
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本郷通り 駒込駅北口 染井吉野桜記念公園
染井吉野桜記念公園で桜祭りが行われる。 |
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本郷通り 駒込駅北口 妙義坂由来碑
駒込駅前北交差点に妙義坂の由来が記された碑があるが、摩滅が激しく、読むのに苦労する。
坂の西方駒込三丁目ある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に『日本武尊東征の際此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す』」と記されている。 |
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本郷通り JR 駒込駅(北口) |
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本郷通り JR跨線橋 駒込橋 |
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本郷通り JR 駒込駅(南口)
駒込駅の南口にはバスターミナルがあり、桜が美しい。 |