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目黒不動尊(瀧泉寺) 仁王門前 白井権八と小紫の比翼塚
目黒不動尊の仁王門前にある。目黒不動尊前のかむろ(禿)坂は、小紫付きの禿の悲話に因む。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 仁王門前 白井権八と小紫の比翼塚
白井権八は鳥取藩士で、同僚を切って出奔、吉原の遊女小紫となじみになったが、金に困り辻斬りなどをして処刑された。侠客幡随院長兵衛と結び付けられ、歌舞伎で脚色された。小紫は、白井権八の処刑後、その墓前で自害したことから、比翼塚が作られた。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 仁王門前 白井権八と小紫の比翼塚
権八・小紫の悲話伝える比翼塚
処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲詁は“後追い心中”として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈り建てられたという。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 仁王門
目黒不動尊は、天台宗で泰叡山滝泉寺といい、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。 境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。 壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂」(都指定文化財)、「勢至堂」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。 また、境内には「銅造役の行者倚像」「銅造大日如来坐像」(区指定文化財)があります。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽の墓(国の史跡)があります。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺)
瀧泉寺(目黒不動尊)
天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
その他、境内には「銅像役の行者倚像」、「銅像大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(区指定史跡)があります。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 男坂
東日本大震災直後には被害があったとのことで、男坂は復旧工事のため閉鎖されていた。
幕の「甘藷」は墓がある青木昆陽に因む。甘藷まつりは毎年10月28日の縁日に行われる。以前は10月12日の青木昆陽の命日に行われていたが、28日の縁日に合わせて行われるようになった。撮影日は前日の27日であり、屋台設営の準備が行われていた。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 垢離堂
垢離堂の右横に独鈷の滝の青龍の吐水口がある。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 垢離堂、独鈷の滝
このお滝は今を去る千二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
今日都内では大変珍しい名所である。
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目黒不動尊(瀧泉寺) 水かけ不動明王、独鈷の滝
当山の開基は天台座主第三祖慈覚大師円仁で、千二百有余年前の大同三年(八〇八)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。 天安二年、大師が法具”独鈷”を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「独鈷の瀧」と称されました。 大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰叡」の勅額を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。 「独鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の当病平癒を祈願されました。 目黒不動尊御詠歌 清らけき 目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊
ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され。より清らかな心と身で目黒の不動さまに参脂できることとなりました。 合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 水かけ不動明王 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 独鈷の滝
青龍の吐水口から水が吐出されている。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 男坂 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂
江戸五色不動尊は、徳川家光が天海大僧正の献策により天下泰平を祈願し、設けたもので、目黒、目白、目赤、目青、目黄である。成立年代、寺の特定などには異論がある。
目黒不動 -
瀧泉寺(目黒区下目黒) 東急目黒線 不動前駅
目白不動 - 金乗院(豊島区高田) 副都心線 雑司が谷駅
目赤不動 - 南谷寺(文京区本駒込) 南北線 本駒込駅
目青不動 - 教学院(世田谷区太子堂) 東急田園都市線 三軒茶屋駅
目黄不動 - 永久寺(台東区三ノ輪) 地下鉄日比谷線 三ノ輪駅 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂前広場 災厄除 護衛不動尊
本堂に対して右にあるが、碑文はカスレがひどく読めない。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂前広場 災厄除 護衛不動尊 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂前広場 八大童子 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂前広場 八大童子
本堂の右端にあり、鉄扉があって近寄ることはできない。
不動明王の眷属として恭敬礼拝する者を影の形に随うが如く守り衆生救済に活躍する童子たちである。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂裏に向かう階段は閉鎖中
詳細は不明だが、本堂裏には工事用機材置き場があり、東日本大震災の復旧工事のせいかもしれない。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂 左回廊を歩いて本堂裏へ |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂裏 銅造大日如来坐像 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂裏 銅造大日如来坐像 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂裏 銅造大日如来坐像
蓮華座に結跏趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹き寄せの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯の衣文表現もよく整っています。
現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名がみえることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和三年(1683)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 工事のため閉鎖されている墓地への入口
青木昆陽(甘藷先生)の墓地は、大本堂裏の道から行けるはずだが、工事のため閉鎖されている。
目黒不動尊の名所である青木昆陽(甘藷先生)の墓地は境内から外れた所にあるので、北の不動公園とフェンスの間の道を歩くことにした。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂裏の西出口から不動公園へ
本堂裏には児童公園の不動公園がある。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 目黒不動尊(瀧泉寺)と不動公園の間の道を東進
目黒不動尊のフェンスの所々に甘藷先生墓所の案内が付けられている。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 墓地 青木昆陽(甘藷先生)墓
墓地の東端の下り階段手前にある。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 墓地 青木昆陽(甘藷先生)墓 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 墓地 青木昆陽(甘藷先生)墓
国指定史跡 青木昆陽墓
江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄十一年(一六九八)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。 彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭貨幣考」「和蘭語訳」などを著述する。また『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために″甘藷先生″と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年(一七六九)歿。行年七十二歳。 |
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目黒不動尊(瀧泉寺) 本堂から見た男坂 |